「通史学習は不要か?」再論


 3号に載った、私の「通史学習『不要』論」についてのHamaさんの「通史学習必要論」について反論がありますのでお便りします。

 まず私は『通史学習は不要』とは言っておりません。『現在のようなカリキュラムの大枠が変わらないのなら通史学習は不要』と述べたつもりです。

今の学校制度では『学ぶ意欲も興味もなくても』通史を学ばねばなりません。もちろん、通史学習を興味深く楽しくシュミレーションをしながら、興味を

持たせ、関心を呼び起こしながら学習する事は可能です。でも今の、週4時間、2年間の枠では無理です。しかも今度の指導要領では週3時間2年

間に減り、しかも通史学習は変わらずです。学ぶ量はほとんど変わらないのに学習時間は削減です。そしてもう一つ変わらないのは入試です。あい

もかわらず通史で各時代の核になる出来事を相互の関連性もなく網羅的に覚えている事を要求する問題。これではじっくり歴史的事件の意味を考

える学習を進めると、これ以外に(つまり課外授業か自宅学習として)受験のために出来事を覚える学習が必要になってしまうのです。

 だから現行の必修枠の多い学校制度で入試制度も変わらないのなら『せめて通史学習をやめろ』と主張したのです。通史を学ばねばわからない

事はたくさんありますが・・・。

 もう一つHamaさんの意見に反論。『教養として通史を学ばないと本を読むときや人と話すとき困る』というものについて。私は困って良いと思いま

す。困ってしまった時に『学ばねば』と思った方はご自分で学べば良いのです。また、「知らない事に出会ったときに」『自分が知りたい』と思ったとき

こそが『学習時』です。学校は『学ぶ事の楽しさとその方法を学ぶ』ところに役割を限定して良いと考えます。

 私は『教養としての』歴史の知識が『誰にでも必要』とは考えません。それは極めて趣味的な知識です。必要とする人、知りたい人が学べば良いの

です。全ての人が必要なのは『歴史としての現在を生きるための、現在を歴史課程の一部として捉える認識と、歴史的選択の重みの認識』だと考え

ています。

(これに対するHamaさんの意見:マガジン第4号に所収)
   「反論」ということなので、簡単に私の意見を述べます。

  なお、前半については、反論というよりは、前回のご投稿の補足的な性質を持つ論だと思いますので、

 意見は省略します。

  後半についてですが、一段落目において、コアラさんのおっしゃることはわかります。しかし、それでも

 通史学習が必要であるという考えは変わりません。「私は困って良いと思います。困ってしまった時に

 『学ばねば』と思った方はご自分で学べば良いのです」とのことですが、本や会話中にわからないことが

 出てきたとして、「学ばねば」と思う生徒がどれだけいるでしょうか?ほとんどのの生徒は、わからないも

 のはわからないまま放置しておくのではないでしょうか。それでも中には、広辞苑などで調べる生徒もい

 るでしょう。しかし、英単語と違い、広辞苑を見たところで、その語句の説明を理解するには、さらなる予

 備知識が必要です。広辞苑自体が、通史の知識なしには読めないのですから。

  高校入試の勉強のように、出来事の起こった年代と、人物や事件の名前だけを覚える通史学習が無

 意味であることは、もちろん承知しています。しかし、いくら時間が少なくとも、もう少し肉を付けた通史教

 育はできるはずです。(全範囲に渡ってシュミレーションのような深い肉付けを行うことは無理ですが。)

 それができないようであれば、それはその先生のやり方が悪いのです。(そんな先生はほとんどいない

 でしょうが。)

  コアラさんは、指導要領の都合上、意に反して、上記のような教育をされていることと思います。私は、

 通史をやらないよりは、今のままでよいと思います。

  多くの生徒にとって、「学ばねば」と思って、学ぶことができるようになるためには、ある程度基礎的な

 知識があることが必要だと思うのです。学校のもつ役割を「学ぶ事の楽しさとその方法を学ぶ」に限定す

 るべきではありません。学ぶための基礎知識を身につける場としての役割も考慮する必要があります。

  ところで、第2段落ですが、

  「私は『教養としての』歴史の知識が『誰にでも必要』とは考えません。それは極めて趣味的な知識で

 す。必要とする人、知りたい人が学べば良いのです。全ての人が必要なのは『歴史としての現在を生き

 るための、現在を歴史課程の一部として捉える認識と、歴史的選択の重みの認識』だと考えています。」

  私のいう「教養」と、コアラさんのいう「教養」には、大きなずれがあります。私の書き方がまずかったの

 でしょうが、コアラさんに誤解されてしまったようです。

  私が前号のご投稿に対する感想で述べた「教養」とは、コアラさんのおっしゃるような、歴史自身につい

 ての深い知識ではなく、本を読んだり人と話をしたりする上でのごく簡単な、基礎的知識のことを指して

 いるのです。私は、誰にでも必要だと考えています。

  多くの本は、歴史の基礎知識があることを前提に書かれています。人は、相手に歴史の基礎的知識

 があることを前提に話します。歴史以外の知識を身につけるためにも、人とコミュニケーションをとるた

 めにも、歴史の基礎的知識は必要でしょう。蛇足ですが、歴史や伝統を重んじるヨーロッパ人(や彼らの

 著書)に関しては、特にそうだと思います。現代においては、ヨーロッパ人の本も読まなければならない

 し、ヨーロッパ人と交流する必要もあります。さらに、将来は、もっとこの傾向が強まることでしょう。

  最後に、「歴史としての現在を生きるための、現在を歴史課程の一部として捉える認識と、歴史的選択

 の重みの認識」の部分についてですが、後半はよくわかります。コアラさんの論と矛盾もなく、その重要性

 に関しては、私も賛成です。

  しかし、前半部分については通史学習不要の見地から考えると、理解しがたいのですが・・・。通史学

 習なしに、「歴史としての現在」を認識すること、あるいは「現在を歴史過程の一部として捉える」ことがど

 うして可能でしょうか。

  もう一度引用しますが、「歴史としての現在を生きるための、現在を歴史課程の一部として捉える認識

 と、歴史的選択の重みの認識」これは、学校教育における歴史という科目の重要性を言い表した言葉と

 して、大変素晴らしいものだと思います。しかし、この言葉の理念を実践するためには、やはり通史学習

 が必要なのではないでしょうか。


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