「王禅寺伝説」の解読

                                                                          王禅寺伝説班   


  1.はじめに       

 私達王禅寺伝説班は,昨年から王禅寺について研究して来ました。研究の切っ掛けは,「東柿生小学校の周囲にある4つの塚が古墳であるの

か,それともそうでないのか」という事を研究しはじめた事です。そして調査して行くと,この4つの塚が,「王禅寺に関わりがある」という言い伝えが,

地元の人々の間に語り伝えられている事がわかりました。

 そこで私達は,ついでに王禅寺についても調べてみました。

 そうするとこの寺は有名なわりに,「@いつ?(何世紀・何時代に)Aだれが?(寺を建てた人は誰か?)Bどこに?(最初から現在の場所に建てら

れたのか)C何のために?(何宗の寺として建てられたのか)」という事についての多くの言い伝えがあって,はっきりとは解明されていない事がわ

かりました。そしてこの問題は,4つの塚を解明する上でも大切な問題なので,以後,この王禅寺についての謎「王禅寺伝説」について研究していく

事になりました。

 以下に発表するのは,この一年間の研究の成果です。依然として分からないことが多いのですが,一緒に考えていただければ幸いです。

                                     2.王禅寺伝説                           

 さて,王禅寺の始まりについては,3つの言い伝えがあります。名付けて,「夢のお告げ伝説」「弘法大師伝説」「四つの塚伝説」の3つです。次に各

々の伝説について,簡単に説明しましょう。

<@夢のお告げ伝説>

 今から1200年前のことです。聖武天皇の皇女,孝謙天皇は仏を深く信仰されていました。たまたま「麻生郷の“光ヶ谷”の土中に一寸八分の観音

あり」との御霊夢によって,観音様を掘り出され,王禅寺伽藍を御創建なされたということです。その後,この寺は醍醐天皇の延喜17年(917) に,高

野山第三代の無空上人によって新しく堂塔が建立され,朝廷から星宿山華蔵院の寺号と封戸三千戸をいただき,東国を守る勅願寺となったと伝え

られています。さらにその後,火災により堂塔の消失をみたが,順徳天皇の建保2年(1214),等海上人によって再興されたということです。(以上の

事が寺に伝わっています。)

 またこの伝説は,江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記槁」という書物に次のように書かれています。

 寺伝によると,孝謙天皇( 在位749 〜757)の夢のお告げにより,当村の小名光ヶ谷の土中より,

 一寸8分の観音が掘り出され,伽藍を 創建した。 その後年月を経て破壊されていたのを,崇

 徳院(在位1123〜1135) の時代に再建されたという。

 これが「夢のお告げ伝説」です。                                                         

<A弘法大師伝説>

 百合ヶ丘にある弘法の松には,次のような言い伝えがあります。

 橘樹郡と都筑郡を境する高石の丘に一人の僧が訪れ,松の木に腰をおろしました。『山あり,谷

 あり,こうした自然の里に寺を建て,仏の教えを広めるには本当に適した所だ』とその僧は言いま

 した。しかし,惜しいかな,九十九谷で百谷に一谷足りないので,ここ高石に寺を建てることを断

 念しました。この僧こそ,有名な弘法大師であったのです。それ以後,村人たちは誰いうとなく,

 弘法大師のおやすみなされた松を『弘法の松』と呼ぶようになりました

 この話だけでは,王禅寺に関係ないように見えます。でも,この弘法の松のある尾根のすぐ南側の谷が,例の観音が掘り出されたという「光ヶ谷」

なのです。そしてこの話によく似た話が,新編武蔵風土記槁にのっています。

 それはこうです。

 この寺(王禅寺)は関東の高野山といわれている。そのわけは,昔,高野山の様子をこの地に移

 そうとして山々の谷を数えたが,百の谷に1つ足らないので寺を作るのを中止したと。(土人曰く)

 こうした事から,この弘法の松にかかわる伝説も,王禅寺の始まりに関わる伝説の一つであると判断したわけです。

<B四つの塚伝説>                             

 現在,東柿生小学校の東側に「牛塚」「狐塚」と名付けられた塚が2つあります。そしてさらに,現在は破壊されてしまってないのですが,東柿生小

の北西側,尾作材木店の隣の青戸さんの庭に塚が一つあり,東柿生小の南西側,下麻生公会堂の所に「経塚」と呼ばれた塚が一つありました。こ

のうちの「牛塚」「狐塚」は,考古学の専門家によると「古墳である」といいますが,地元の人々の間には,これとは違った伝説が言い伝えられていま

す。

 それはこうです。 

 王禅寺は,最初は弘法の松の所にあったが,後に移転して,現在の東柿生小学校の所に移っ

 た。しかし,後世(室町か戦国時代)に戦乱で焼けて現在の所に再建された。この時に焼けた物

 を寺の四隅に埋めたのが,現在東柿生小学校の周囲にある4つの塚だという

 そして,地元の方の話によると,終戦直後の農地解放のころまで,この4つの塚で囲まれた土地は「寺畑」といって王禅寺のものであったそうで

す。                                           

 以上が,王禅寺の始まりに関する三つの伝説の内容です。                                              

 3.研究のポイント

 以上の3つの「王禅寺伝説」を解明する上で,いくつかの研究上のポイントがあります。次に簡単に説明しておきたいと思います。

<@1寸8分の観音が現在はないということ>                 

 この伝説を解明する上で,1寸8分の観音像が王禅寺に伝えられ,その観音像が奈良時代かそれ以前に作られたことがわかれば,孝謙天皇の

勅願かどうかは別として,奈良時代創建という寺伝は正しいという事になります。しかし,現在王禅寺には1寸8分の観音像は伝えられていません。

<A奈良または平安時代の寺院跡が発見されていないということ>       

 現在の王禅寺の境内や光ヶ谷または弘法の松の付近,そして東柿生小学校校地から,奈良または平安時代の瓦など,そこに古い寺院があった

ことを証明するものが発見されれば,創建された時代と場所ははっきりと分かるわけです。しかし,この地域はきちんと考古学的な調査がなされて

おらず,そこに寺院跡があるかどうかは分かりません。

 以上のように,創建に関する伝説を直接証明する物的証拠がないというのが現状です。そこで王禅寺の創建に関する伝説を解明する方法は,次

のような,状況証拠の積み重ねによる推測以外にありません。

<B孝謙天皇の夢のお告げという話は信じられるか?>

 私達は,この夢のお告げという話は後の世の人がつくったものだと思います。同じような話が全国各地にあるからです。

 では「夢のお告げ伝説」は全くのデタラメで,真実を1かけらもふくんではいないのでしょうか。(新編武蔵風土記槁の著者はこう判断しています。)

 1寸8分の観音像が存在しなければ,または存在した可能性がなければ,そう判断できます。

 そこで次のポイントが出てきます。    

<C1寸8分の観音像が,奈良時代またはそれ以前に存在しえたか?>

 現在王禅寺に1寸8分の観音像が伝わっていなくても,過去にはあったことも考えられます。火災その他の原因でなくなってしまった事も考えられ

ますし,まだ発見されていない(例えば,現在の本尊の観音像の体内に納められているとか)可能性もあります。そこで1寸8分(約6p)の観音像が

どこかにないか,そしてあったとすれば,それは何のために作られたのかという事を調査してみる必要が出てきます。

<D奈良〜平安時代にこの地に寺が作られる下地があったのか?>

 もう1つの状況証拠として,麻生地区と仏教との関わりの問題があります。奈良時代またはそれ以前に,この地にも仏教が伝えられており,また,

仏教を篤く信仰していた豪族がいた事が証明されれば,奈良〜平安時代に王禅寺が創建された可能性が出てくるわけです。また,光ヶ谷・東柿生

小・現王禅寺の土地が,当時としては寺院を作るのに適した土地であったかどうかも,考古学的に調査し,判断してみなければなりません。

<E弘法大師はこの地に本当にやってきたのか?>

 最後のポイントとして,弘法大師がこの地にやって来た可能性があるのかということが確認される必要があります。そこで,この人の一生について

調べてみなければなりません。 

                                                                   

 以上が「王禅寺伝説」を研究する上でのポイントです。私達は,「夢のお告げ伝説」は後の世の人が作ったものだろうと思いますが,なんらかの真

実を反映しているのではないかという前提に立って,ポイントのC〜Eについて調べてみました。

4.観音信仰について

 最初に,観音信仰がいつ頃から始まったのかという事について調べてみました。

 観音さまとは,観世音菩薩が本当の名です。仏のため人を苦しみから救い,仏に近づける神で,真言宗にはとても重要な存在です。また,日本で

の観音信仰は,すでに仏教渡来直後に始まり,日本仏教史を通じて現在に及んでいます。

 記録としては<扶桑略記>の推古3年(595) の条に,淡路島に漂着した沈水香木で観音像を彫像させたあるのが最初です。

 飛鳥時代には,法隆寺の百済(くだら)観音・同寺夢殿の救世観音をはじめ,現存する仏像中でも観音像が最も多く,その信仰が<法華経>の伝

来とともに急速に広がったことを物語っています。

 さらに奈良時代にも,神亀5年(728) 皇太子の病の回復を祈って,観音像 177体・<観音経> 177巻を造写したような大規模な信仰表白があり,

国分尼寺の観音像安置をはじめ,造像写経はもとより,観音を本尊とする寺院も数多く建てられています。

 以上の事から,王禅寺の創建時の本尊が観音であっても,何の不思議もない事がわかると思います。(なお現在も本尊は観世音菩薩です。)

5.一寸八分の観音像について

 1寸8分の観音像については,以下のような資料があります。

1)全国各地の伝説。

 全国に1寸8分の観音についての伝説は,多く見られます。次にいくつかその例をあげてみましょう。

 ○塩沢寺(山梨県)

    弘法大師が諸国巡錫中に足をとめ,「人間一期必ず大小25度の厄難あり。衆生のため大悲薩たの降臨を請わん」と17日間祈願したところ,

    正月14日,1寸8分の霊影が岩上に現れたので,大師がこの霊影を6寸余の石に刻んで開眼した。

 ○浅草寺(東京都)

    縁起によると,「推古2年(594) に1寸8分の観音像が拾い上げられ,これを祭ったのに始まる」とある。

 ○連城寺(大分県)

    欽明天皇4年(543) に百済の竜伯という船乗りから伝えられた1寸8分の観音を祭ったという。

 ○立江寺(徳島県)

    光明皇后が安産祈願のため,閻浮檀金1寸8分の尊像を納めたという。

 他にもかなりありますが,このように1寸8分の観音の伝説は各地に広がっていますし,時代も飛鳥〜平安時代に集中しているようです。(残念な

がら現存している1寸8分の観音はまだ見つかっていません。)

2)小型の仏像について。

 1寸8分ではありませんが,国宝や法隆寺に伝わる仏像を調べてみると,沢山の小型の仏像があることが分かります。そしてそれは,飛鳥〜平安

時代にかけて作られたものが多く,しかも法隆寺に伝わる「蘇我の大臣(馬子か?)の持仏であったという釈迦三尊像」のように,個人の家にまつら

れた仏像であったと考えられます。 さらに多くの小型の仏像が,後の世に作られた大型の仏像の体内に納められていたという事も,興味深い資料

となると思います。

 以上の資料から推測できる事は,奈良〜平安時代に創建されたという王禅寺の最初の本尊が1寸8分の観音像であってもおかしくはないという事

であり,それが寺に納められる前は,個人(当時としては豪族)の持仏であった可能性があるという事です。さらに興味深い事は,もし王禅寺が戦乱

などで消失していないとすれば,現在の本尊の体内に1寸8分の観音像が安置されている可能性もあるという事です。(現在の本尊の観音像は,室

町時代の作と考えられているが,顔の作りなどが平安時代の様式を伝えているので,平安時代につくられた観音像が何かの原因で失われ,それを

模刻して後に作ったのではないかと考えられているそうです。−川崎市史参照)

 6.仏教はいつ関東に伝わったのか?

 次に,麻生地区と仏教との関わりを調べる前に,関東地方に仏教はいつ頃伝わったのかという事について調べてみました。

 仏教が関東に伝わった年代を予想させる資料としては,次の3つがあげられます。

<@百済の僧の渡国の記録>

 『古事記』と並んで日本最古といわれる『日本書記』に,「天智5年(666) に,それまでは大和で官食を給していた百済の僧俗2千人余を東国(武蔵

の国)に移した」とあります。

<A祭人埴輪>

 群馬県観音山古墳から出土した“祭人埴輪”の一群の中で,『合掌する男子』が特に注目されます。(下の図を参照のこと)                        

       (観音山古墳出土の祭人埴輪の復元図)            

 この埴輪について,森浩一同志社大学教授は次のように言っています。

 「『合掌する男子』は初めての出土で,その合掌する姿から,この時代に群馬の地方にすでに仏教が入っているのではないかという可能性も考え

られます。」と。

 加えて群馬県立歴史博物館の梅沢副館長は「文献に遊部として出てくる,祭式を司る“かんなぎ”だろう。後ろが2つに割れた烏帽子は,高句麗の

古墳壁画に似たものが描かれていて,あるいは渡来人かもしれません。」と言っています。(注,観音山古墳。6世紀後半〜7世紀前半築造。全長

約100mの前方後円墳。)

<B仏像鏡>

 仏像鏡といって,青銅の鏡の裏面の文様の中に,仏像が描かれたものが各地の古墳から出土しています。その中で千葉県の木更津市に出土し

た2面の仏像鏡が注目されます。

 1.祇園大塚山古墳(前方後円墳・箱式石棺)。

  ・時−−−−5世紀後半。

  ・副葬品−−(ぼう製)画文帯四仏四獣鏡一面他。

 2.鶴巻古墳(円墳・箱式石棺)。

  ・時−−−−6世紀前半。

  ・副葬品−−画文帯四仏四獣鏡,神獣鏡他。

 以上の資料の年代から見ると,早くて5世紀後半,確実な所で6〜7世紀には,関東に仏教が伝わっていると考えられます。

7.古墳時代〜奈良時代の麻生地区

 次に,考古学上の資料から,古墳時代〜奈良時代の麻生地区の様子と,仏教と麻生地区との関わりを調べて見ましょう。(遺跡の分布の状況は

下の地図を参照)   

                                  

<@鶴見川沿いに横穴古墳が多いこと。>

 この地区の鶴見川沿いには,崖に穴を掘って作った横穴古墳が数多くあります。このような古墳は,どのような階層の人の墓であったのかは,ま

だよく分かっていません。しかし,平安時代になっても庶民層の人々の死骸は,川原に捨てるか谷間に捨てるというものでしたので,それ以前の時

代もそうだったと思われます。   

 麻生地区の横穴古墳は,7世紀前半〜8世紀前半にかけて作られたものと考えられています。しかも,崖の岩盤に長さ約5〜8m・幅約2〜3m・

高さ約2〜3mの穴をくりぬき,しかもそこに鉄の刀や金銅製の耳飾りや玉製の首飾りを副葬できる人々というのは,庶民階層以上の人々,当時勢

力を強めていた上層農民か豪族層に属する人々であることは確実だと思います。

 また,早野の2区1号古墳や能ヶ谷カゴ山2区7号古墳では,奥の壁に馬や騎馬の人物が描かれており,古代において『石川の牧』と呼ばれ,軍

団に不可欠な馬を供給する役割を持ったこの地域を管理する豪族の墓ではないかと考えられています。

 さらに,この地区の多くの横穴古墳からは,火葬された人骨が発見されることから,この時代(7〜8世紀)にはすでに,麻生地区の豪族層や上層

農民層の間には仏教が広まっていたと考えられます。(火葬は仏教に伴うものです。)

 <A東柿生小学校周辺の塚>                         

 東柿生小学校の周辺には,ちょうど小学校を囲むように,4つの塚が,かっては存在していた。(下の地図を参照のこと)4つの塚はそれぞれ『牛

塚』『狐塚』『経塚』と名付けられ,1つの塚だけは,名前がありません。

                      (東柿生小学校周辺の塚)              

 この塚は,古墳であるといわれていますが,はっきりした事は分かっていません。しかも4つとも,きちんとした考古学的な調査もされずに破壊さ

れ,現在では『牛塚』『狐塚』の一部が残されているにすぎません。

 4つのうちの1つが,『経塚』と呼ばれていた事から,「お経や仏像を埋めて,子孫の繁栄を願った」経塚の一つかとも思われますが,これもたしか

な事は分かりません。また,名前の付けられていない塚を壊した時に,「仏像が出た」という話も聞きましたが,これも確認されていません。

<B東柿生小学校の“祭祀遺跡”>

 昭和40年の11月に,東柿生小学校で校舎の拡張基礎工事を進行中に,土器片が出土し,市教委文化課で調査したことがあります。しかし,調査

した時はすでに工事の大半が終了していて,遺跡全体を調査することはできなかったそうです。その時出土した土器は古墳時代の土器(鬼高式期)

のみで,高坏と椀が圧倒的であり,特に高坏が9個まとまって出土したことが注目されました。このことからこの遺跡は「古墳時代の祭祀関係のも

の」と判断されています。                                                  

<C弘法の松付近で“蔵骨器”が発見されていること>

 弘法の松にほど近い丘陵の斜面から,「蔵骨器」が発見されています。

 「蔵骨器」とは,火葬骨を納めた土器で,普通はこの土器を木製の箱などに入れて土中に埋納し,その上に高さ1mほどの盛り土をして墓としたも

ののことです。しかもこの「蔵骨器」はその形や作りから,9世紀前半頃と推定されています。そして「蔵骨器」は一般的に言うと,当時においては,国

府における官人層(豪族層)の家族墓として作られていたと推定されています。                     

 この事は「王禅寺伝説」を考える上で,大切な資料となると思います。なぜならこの「蔵骨器」の主は,自らを火葬にするという,当時としては先進

的な仏教文化を受け入れていた豪族であり,また,この「蔵骨器」の発見された場所は,例の光ヶ谷のすぐ上で,弘法の松のすぐ近くであるからで

す。

 つまり,「孝謙天皇の夢のお告げによって1寸8分の観音を掘り出した」という『光ヶ谷』や,「弘法大師がやってきた」という尾根は,どちらも仏教を

篤く信仰した豪族の墳墓の地であったということであり,この近くに寺院が建立されたとしてもおかしくはない事になります。

<D岡上の阿部原廃寺>                           

 この麻生地区のいちばん西側の岡上地区に,奈良時代の寺院跡と推定される遺跡があります。

 岡上東光院の南側の丘陵上にある,阿部原廃寺です。この地からは,8世紀中頃と見られる,武蔵国分寺式の瓦が発見されており,礎石が発見

されていないので,小規模な掘立柱の仏堂であったと考えられています。またここからは,「荏」「国」と書かれた瓦が出土していることから,隣接の

荏原郡の郡家(郡を治める豪族の屋敷)や,国衙(国府の役所)からの寄進があったと推定され,この寺は,都筑郡の郡司(郡を治める豪族)の一

員である豪族が建立したものであると推定されています。(川崎市史参照)

 この事も奈良時代に麻生地区に仏教が広まり,それを保護する豪族層があったことを物語っていると思います。

<E山口台上台(うぇんだい)遺跡の掘立柱式建物群>

 昭和58年〜59年にかけて,新百合ヶ丘駅の南方の山口台において区画整理事業にともなう遺跡調査が行われました。そしてその1つである上台

遺跡から,注目すべきものが見つかりました。

 奈良〜平安時代の竪穴式住居26軒と掘立柱式建物17棟の発見がそれです。建物のうち,東西方向に建てられた2棟のものは,大きさは2×4間

でいずれも1〜3面に廂をもっていました。またこの遺跡から出土した土器の中に,灰釉陶器(皿・瓶)があり,須恵器の中に,獣脚付壷の破片があ

ることも注目されます。さらにこの遺跡からは,刀子・鉄鏃・鎌などの鉄製品が比較的豊富に出土していることも注目されます。

 まだこの遺跡は調査中で,この掘立柱式の建物群がなんであるのか結論は出ていませんが,この時代の東国において,掘立柱式の建物を持つ

のは,国衙や郡家などの役所か,豪族の家,寺院であると考えられているので,調査の結論が注目されます。

 というのは,この遺跡は光ヶ谷の西方約1qほどの所にあり,弘法の松や,蔵骨器のみつかった尾根の続きで,その尾根が麻生川が作った平地

に突き出している丘の上にあるからです。したがってどういう結論になるにしろ,「蔵骨器」や「光ヶ谷」との関連が出てくるわけです。

 

 以上が現在の所で,考古学的に分かっている麻生地区の状況です。まだきちんと調査されたものが少なくて,はっきりとした結論が出せないので

すが,すくなくとも麻生地区は,7世紀には仏教と関わりのある豪族層が存在していた事は間違いないと思います。また,東柿生小や光ヶ谷が宗教

的な場所であった事も間違いないでしょう。しかも東柿生小付近は,周囲に塚が多く集まり,周りの丘陵の斜面には横穴古墳が数多く存在すること

からも,奈良時代当時においては人口の集中した地域であったと推定できます。そして光ヶ谷付近は,人里離れた墳墓の地であったと推定できると

思います。

8.弘法大師について

 では資料の最後として,弘法大師の生涯について,調べてみましょう。

< 空海年表 >
西暦 年齢 主    な    出    来    事
774 讃岐の国,多度郡に誕生。父は佐伯田公,母は阿刀氏。
775 6/19 佐伯今毛人(祖父)を遣唐使に任ず。
790 17 10/3 佐伯今毛人没す。(72) 
791 18 大学明経科に入る。
一沙門より「虚空蔵求聞持法」を教えられ,阿波大龍嶽・伊予石槌山・土佐室戸岬などで修行。
798 25 槙尾山寺に於いて,沙弥となり,名を教海という。
804 31 5/12 遣唐大使藤原葛野麻呂の第一船に乗り,難波を発つ。12/23 長安(唐の都)に至る。
806 33 明州を発ち,帰国の途につく。ついで太宰府に着す。
815 42 常陸の徳一,下野の広智,甲斐の藤原真川らに書を送り,真言密教流布に協力を求む。
823 50 東寺(京都府)を給預せらる。教王護国寺と号す。
827 54 5/28 大僧都に任ぜられる。
832 59 11/12 高野山に帰り,穀味を厭い,座禅の生活に入る。
835 62 高野山において病む。3/21入定。5/10埋葬。
921   0/27 観賢の上奏により,空海に弘法大師の諡号を賜う。 

 上の年表でも分かるとおり,空海は日本諸国を歩きまわったとされているが,実は,都周辺と高野山とからは出ていないことがわかる。したがっ

て,「弘法の松」の伝説による,弘法大師が麻生の地を訪れたという説は嘘であることがわかる。

                            

 以上が,私達がこの一年間研究してきた事の全てです。ではこのような研究成果に基づいて,「王禅寺伝説」について,どのような事が言えるので

しょうか。私達の間でも,一つの結論には達していません。現在手元にある資料から,いくつかの推測が成り立ちます。

 最後に,その例として,2つの意見を発表して終わりたいと思います。    

9.王禅寺伝説考@   2年8組 讃岐 賢一                                             

 まず私は,王禅寺のもとが東柿生小学校のあたりにあったと考えます。      

 ◎「新編武蔵風土記槁」の「王禅寺」のらんには,「王禅寺は昔,真言宗・禅宗・律宗を兼ねていた」とのように書いてあった。それぞれ時代は,平

   安・鎌倉・奈良となっている。

 だから,王禅寺の始まりは,奈良時代と考える。    

  ※奈良時代の寺は,人のたくさんいる場所,平安時代の寺は山奥にあってそこで修行するというものであった。

 その他,色々な考えを個条書きにしてみると…。

1.孝謙天皇の夢のお告げはウソだと思う。
2.1寸8分の観音像は,最初の王禅寺の本尊だったと思う。
3.光ヶ谷(弘法の松)は山奥だったらしいので,1寸8分の観音をそこで拾ったと は考えにくい。し かし,拾われたのは確かだと思う。
4.1寸8分の観音と孝謙天皇は全く関係なし。

 ○私が考えた,王禅寺宗教経路。                       

   単なる観音信仰→(すぐに)律宗→律宗+真言宗→律宗+真言宗+禅宗→真言宗のみ。   

 ○私が考えた,王禅寺位置移動経路。                    

   東柿生小あたり→弘法の松あたり→現在位置。                                                    

 ◎今までの自分の意見を総合すると…。                   

  「奈良時代,だれかが1寸8分の観音像をひろい,祭った。それが今の東柿生小学校のあたり。それが,何らかの理由で律宗の寺になった。とこ

 ろが,弘法大師(又はそれに近い人)かだれかが来て,それを真言宗と,この地に縁のある律宗にしてしまった。そして王禅寺が少しすたれて来た

 時,『天皇に関係のあるすばらしい観音がある』ということにして,ちょうど律宗がさかえ始めた頃の天皇,孝謙天皇に関係がある事にした。」

 とのようになる。

  ※光ヶ谷の地名は,その「王禅寺がすたれていた頃」の時,「光輝く観音」と「 光輝くような美しい谷」ということでつけた地名だと思う。弘法の松

   あたりから,現在の位置に移動したのは,弘法の松が人里はなれた所だといっても人目につく所だったからだろう。

  ※1333年,新田義貞軍に放火され(案外目立つから簡単に放火された),炎上し たということから推定。

〔補足〕

 個条書きの1.は,天皇がたかが1寸8分の観音像を救おうとし,それを“ほこら”に祭るなどとは考えづらい。

 2.は,私が「王禅寺は奈良時代に最初にできた」と律宗の方から考えているため,「人が多い所に祭った」と推測。しかも関東にはすでに仏教も入

  っていたことだし…。

 3.は,日本最初の観音が651 年,関東地方に666 年朝鮮の僧が西日本から来ていることなどから,渡来人が伝えたのではないかとも考えられ

  る。

 4.は,私が夢のお告げを否定するので,かかわりあいが今のところない。

○宗教経路と位置移動経路を組合わすと…。 

@ A B
観音信仰+律宗
     ↓
東柿生小あたり
律宗+真言宗,律宗+真言宗+禅宗
           ↓
        弘法の松あたり 
真言宗
  ↓
現在位置

 

10.王禅寺伝説考A 2年8組 鶴井 和

 まず,孝謙天皇の伝説と弘法大師の伝説が50年余離れているため,孝謙天皇伝説を「王禅寺伝説第一部」,弘法大師伝説を「王禅寺伝説第二

部」とさせていただこう。

 <第一部>                            

 これは「孝謙天皇の夢のお告げ…」と云うことになっているが,「夢のお告げ…」と「光ヶ谷に寺を建造した」というのはウソであろう。

 「夢のお告げ…」がウソの理由として,「SFの様な作り話めいている。光ヶ谷という“谷”に一寸八分の観音像がうまっていたとしても,さがし出すの

にかなりの時間を要しただろう(+金も!)。それだけの大変な事が,単なる風土記槁だけに書きとめられるだろうか?」というのが考えられる。

 「光ヶ谷に寺を建造した」という事がウソの理由として,「光ヶ谷は奈良〜平安時代の間には,あまり人が入らない山奥であった」(遺跡の分布から)

,「奈良時代に山奥に寺を造ったというのは(宗派の理由から)ありそうもない」という事実がある。

 では,一寸8分の観音については,どうであろうか。

 私は,(一寸8分の観音は)存在しただろうと考える。

 その理由は(資料編の),「一寸8分の観音像について」と「仏教はいつ関東に伝わったか」の2つの資料から説明できると思う。

 一寸8分の観音像が(詳細な証明はできないが…)このあたりにあっただろう。おそらく「渡来人」ではないかと思われる人物が,この地になんらか

の形で(この地の豪族にわたすetc.)一寸8分の観音像を残したのではないか。そして後世,観音像に伝説がついた。これが「第一部」である。

 <第二部>

 これは「弘法大師がこの地に来て…」ということになっているが,本当の部分は「松を植えた」と「寺を建造した」位であろう。後は,うそ(伝説)では

ないかと思う。

 では実際はどうだったのだろうか?。

 記録では弘法大師(空海)は唐から帰ってからは京都周辺からは出ていないとなっている。(これにより大師がこの地に来たというのはウソだとわ

かる)ただし,大師は,京都から地方の豪族へ寺を造るようすすめた手紙を出しているので,これにより,寺を造った可能性がある。

 つまり,手紙を受け取った豪族が寺を建てようと思い,この地で真言宗にみあう土地(=山奥)である光ヶ谷に寺を建てた。そして本尊を(この地に

なんらかの方法で残っていた)一寸8分の観音像とした,となる。これが「第二部」である。

 これにより,最初の王禅寺は真言宗の寺として光ヶ谷に建てられ,それを建てたのは,この地の仏教を信じる豪族である。そして,一寸8分の観

音がその本尊であった,と考えられる。

11.あとがきにかえて

 「王禅寺伝説」について,私達が考えている事は以上のとおりです。

 最初の研究のポイントにも書いたように,肝心の一寸8分の観音像が現在見つかっていないことや,王禅寺があったとされる場所から古代の寺院

跡が発見されていない事などから,多くの状況証拠を積み上げて推測していく以外に方法がありませんでした。そのためはっきりと「こうだ」とは言え

ない状況ですが,あえて手に入った資料をもとにして推測をしてみました。多くの間違いがあると思いますが,これからも研究をつづけてより確かな

事が言えるようにしていきたいと思います。 


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