なぜ王禅寺には「無空上人伝説」しか残っていないのか? 
 −−−−王禅寺伝説の解読(その3)−−−−
                                                    王禅寺伝説班  鶴井  和


1. はじめに 

 王禅寺の開闢の歴史については,2つの伝説があるという事は,王禅寺伝説の解読(その2)の方で述べました。この項では,そのうちの「無空上

人伝説」について考えてみたいと思います。

 「無空上人伝説」とは,王禅寺が,高野山第三世の無空上人によって,延喜17(917) 年に作られたとするもので,現在王禅寺の開闢の歴史とし

て,寺では採用されているものです。

 しかし,私たちがいろいろ調べてみると,この説には,多くの点で真実と認めるには無理な所があることが分かりました。結論を先に言うと,「無空

上人伝説」は全くのつくり話だと思います。

 では,何故この話が,王禅寺の開闢の歴史とされたのか,このことについても,私たちの考えを述べてみたいと思います。

2.「夢のお告げ伝説」 

 「無空上人伝説」について検討する前に,もう一つの伝説の「夢のお告げ伝説」についての私たちの考えをまとめておきます。

 これは,神奈川県史に掲載されている「閻浮檀金聖観音略縁起」に記されているものがその元であり,これを「王禅寺伝説の解読(その2)」でやっ

たように,様々な事実関係とつなぎあわせてみると,次のような推測が成り立ちます。

  この地域には,飛鳥時代より仏教を信じている豪族がいて,その豪族が,自分が持っている渡

 来の金の観音−1寸8分−のために「お堂」を建てた。そしてそれを拡張して寺にしてしまう時

 に,その豪族がその時代の天皇−つまり孝謙天皇の名を借りて縁起をつくった。

  そしてその後,寺は火事に見舞われ,数百年程の間があく。

 そして崇徳帝の時代に再建され,その時にまた,その時代の天皇−崇徳天皇の名を借りて縁起

 を書いたが,この2つの縁起が一つにまとめられて「略縁起」となった。

 というものです。

3.「無空上人伝説」について

 次に「無空上人伝説」の方ですが,この伝説は,文書としてのそれの存在が確認されておらず,明治時代にできた石碑に記されているそれを,寺

が「正統な縁起」として主張しています。

 しかし,無空が建てたという伝説は,他に残っている資料とつきあわせてみると,容易に信用できません。

 『密教大辞典』によると,無空という人は,次のような一生を送ったとされています。

生まれた年 不明
894年(寛平6)年 高野山金剛峯寺の座主となる。
912年(延喜12)年 東寺から,「三十帳策子」の返還を要求されるが,『先代からの秘宝』という理由で,
返還を拒否。
915年(延喜15)年 東寺の長者(観賢)が,宇多上皇に,「三十帳策子」の返還を願い出,上皇から
高野山へ返還の催促がなされる。
916年(延喜16)年 策子を伴って,門徒を率いて高野山を出,山城国の園提寺に逃れ,さらに,違勅
の咎を避けて,伊賀国の蓮臺寺に移った。
918年(延喜18)年 6月26日。蓮臺寺にて死す。 

 この資料に基づけば,王禅寺が建立されたという延喜17年という年には,無空は,伊賀の国にあって,東寺との『三十帳策子』を巡る争いの渦中

にあったことになります。 この事件がどのようなものなのかは,よく分からないのですが,いずれにしろ,無空が王禅寺の開山となることは無理の

ように思います。

 しかもこの「無空上人伝説」は,「夢のお告げ伝説」と時代的に間にはさまる説であるにも関わらず,「1寸8分」の観音のことが記されておらず,

「夢のお告げ伝説」に比べて,あまりにも伝説色(作為的な部分が少ない等)が少ないなどの違いがあるという事実があります。

 そして,江戸時代中期に書かれた地理・歴史書である「新編武蔵風土記稿」に「夢のお告げ伝説」は掲載されているのに,「無空上人伝説」はとり

あげられていません。

 以上のことから推測すると,「無空上人伝説」は,風土記稿以後(1828年以後) に,寺で「つくりあげられた説」ということが考えられます。

4.結論 

 つまり,以上の2・3をもとにして考えると,2つの説は,全く別に作られたものであると考えられます。

 最初は,1寸8分の観音像が本尊とされていた時につくられた「夢のお告げ伝説」が縁起として採用されていました。しかし,その後,このもとの本

尊が忘れさられた後になって,「より真実味を出した伝説」として作られたのが,「無空上人」伝説だという解釈が出来るわけです。

 「無空上人伝説」しか王禅寺に残されていない訳は,以上のように説明できるのではないでしょうか。

 注

 まだこの説にも,結論とするには多くの未調査の部分があります。

 ○無空上人の一生については,まだ辞書で調べた程度です。912 年からの東寺との『三十帳策子』についての争いとは何なのか,そもそも『三十

  帳策子』とは何なのかなど,多くの点が不明です。                

 ○無空上人が王禅寺の開山であるということが,どのような歴史的史料に依拠しているのか。この点についての調査もまだ終わっていません。

 現在調査が終わっている所までで考えてみた仮説として,とらえておくほうが 正確だと思います。

−−−顧問より補足−−−


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