亀井城の謎

                                                                       亀井城班 


1.はじめに

 昨年の文化祭で,上麻生の亀井に城があったという言い伝えについて調べて発表しました。この城は,平安時代末の武将,亀井六郎重清のもの

で,月読神社の西の台地にあったと言われています。

 今年は,亀井六郎という人について,もう少し詳しく調べ,さらに亀井城跡を調べてみました。

2.亀井六郎とは?

 亀井六郎は,源 義経の家来の一人で,その兄の鈴木三郎重家と共に,1189年の奥州平泉の衣川の戦いで,戦死したと伝えられています。

『義経記』の巻の八に,次のような記述があります。

 鈴木すでに弓手(弓を持つ方の手)で二騎,馬手(馬の手綱を持つ方の手)で三騎を切りふせ,

 七・八・騎に手傷を負わせて我が身も痛手を負い,『亀井の六郎犬死にをするな。重家はこうぞ』

 と。これを最後の言葉にして,腹をかき切って倒れた。『紀伊の藤代を出た日より,命をば主君

 に差し上げた。今,思いもかけず,一所にて死ぬことをこそ嬉しく思う。死出の山にて,必ず待っ

 ていて欲しい。』と言って,鎧の草摺をかなぐり捨てて,『音にも聞け,目にも見よ。鈴木の三郎

 の弟に亀井の六郎,生年23,弓矢の手並みの程は世の人にも知られる程ではあるが,東方の

 奴等は未だに知らないにちがいない。始めてお目にかかる。』と言い終わらないうちに,大勢の

 中へ割って入り,弓手でおっつけ馬手でせめつけて,斬って捨てた。

  しかし,この亀井六郎の生まれについては,2つの説があります。

@紀伊の熊野の鈴木氏の出という説

 紀伊の国の名草郡藤白の地頭,鈴木重倫の子に,三郎重家がいた。この鈴木三郎重家の弟の六郎重清が亀井の姓を名乗ったというもの。

 資料としては,鎌倉実記という本に

 鈴木三郎重行という者がおり,文治3(1187)年に紀伊藤代にこもっていた義経が奥州に出発す

 る時,持病が悪化してついて行く事ができなかった。そこで代理として,甥二人をつかわした。

 鈴木三郎重家と亀井六郎重清がこの二人である。

 とあるそうです。

A近江の佐々木氏の出という説

 紀伊の鈴木家の言い伝えによると

 鈴木三郎重国という,源 義朝に仕えていた侍がいた。その子の義経がまだ舎那王といってい

 た時に熊野詣でをし,鈴木の館に逗留した。この時に,義経に仕えていた武士で,佐々木秀義

 の六男の亀井六郎重清を,重国の一子三郎重家と兄弟の誓いを結ばせ,重家は家に留まって

 父を養い,重清は義経の軍中に従わせた。義経が奥州に落ちた時,高館にて安住の地を得た

 との手紙が来たので,重家の伯父の重次とが山伏の姿となって,奥州に下った。・・・・

 という。 

  どちらが正しいのかよく分かりませんが,今後,詳しく調べていきたいと思います。

  ○亀井六郎という人が,実在の人物であることは,鎌倉幕府自身が編纂した史書である『吾妻鏡』に出て来るので,たしかだと思います。しか

     し,どのような人であったかは,室町時代になって作られた軍記物語の『義経記』しか資料がないので,よく分かりません。

    ○また,亀井六郎が,亀井城の主だとする伝説の成立がいつの頃であるのかも,よく分かりません。確かなのは,昭和の初めに作られた,

     『柿生・岡上村郷土史』にそう書いてあるだけです。江戸時代末の地誌『新編武蔵風土記稿』にも,「小名,亀井・・村の東をいう。亀井という

     人が居住してから後,このように呼んだともいう。」と記してあるだけです。あるいはこれが,亀井六郎の事なのかもしれませんが。

    ○また,亀井六郎が,佐々木秀義の六男という説もきわめて興味をそそられます。佐々木氏は,源 義朝の滅亡後は相模国に住み,佐々木

     秀義とその5人の息子が,源氏再興のために多いに働き,相模・武蔵に多くの領地を得ており,鶴見川・多摩川の流域にそれが多いからで

     す。                

    ○いずれにしろ,まだ分からない事が多すぎます。                             −−−−顧問より補足−−−−

2.「亀井城」跡について

 亀井城跡と伝えられている所を調査してみました。『柿生・岡上村郷土史』には,城の南側に大手門にいたるらしい坂道があると書いてあったの

で,調べてみました。

 亀井の警察団地の南側の崖を調べてみると,下の図のように,亀井の岡を取り囲むような幅10mぐらいの平地が崖の途中にあり,そこからは,県

道の下麻生−市ヶ尾線の所まで続く坂道がありました。

 この地形を昔の城跡と比べてみると,戦国時代の山城に多い形のように思われます。今,「亀井城」の跡と伝えられている所は,戦国時代の「亀

井城」の跡なのかもしれません。

     (「亀井城」とそれを取り巻く遺構)

 注.○今後は,平安時代〜戦国時代の城跡を研究して,各時代の城の特徴を調べ,今回発見した,遺構らしきものが一体なんであるのかを,は

     っきりさせる必要があると思います。

    ○月読神社の碑文には,『当社は,約四百五十年前,武蔵国都筑郡麻生郷の領主,小島佐渡守が,うち続くおうにん戦乱の苦悩にあえぐ領

     民のため,天文3(1534)年9月29日,亀井城の卯の方(東)に社殿を建立』とあります。これが,どのような資料に基づくのかは分かりません

     が,今回見つけた遺構らしきものが,戦国時代の城のものだとすると,この小島佐渡守の城跡ということになると思います。今後の調査が

     必要です。                            −−−−顧問より補足−−−−


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