亀井城の謎(その2)

5.多摩丘陵の城の特徴の変遷


 亀井住宅の所が「亀井六郎の城」であったのかどうか。この事を考えるには、亀井六郎の時代、つまり、平安時代末〜鎌倉時代初期の城がどの

ような特徴をもっていたのかを知らなければなりません。また、現在各地に残っている城跡は、築城当時の姿をしている物は少なく、多くは(特に交

通の要所や要害の地であった場合には)後世に改造されています。

 そこで、鎌倉時代以後の城の特徴も知らなければなりません。

 このことをまとめるために適当な書物があまりなかったので、手元にあった『多摩丘陵の古城址』(中世城郭研究会 田中祥彦著 有峰書店新社

 1985年刊)を参考にしてまとめてみました。

@初期開発領主の城(館)

 

  武蔵や相模の地では、平安時代の中頃より開発が進んだところで、公地・公民制が崩壊して

 いくなかで、開発した私有地を守るために、武士が自然発生的に出てくる。

  しかし、彼等の住居は、あくまで居館であって、戦闘目的の城とは規模・形態ともに、のちの

 城とは区別される。館を設けた場所は、その地形条件に左右されている。もともと、条里制の

 施されない狭い谷間を開墾していったので、耕地を見下ろす高台に作られたようである。多摩

 丘陵のなかでは「殿谷戸」と呼ばれるものが一般的であろう。

                     (中略)

  この頃は、まだ開墾する所が多かったので、党(武士団)間の武力闘争はあまりなかったの

 ではないかと思われる。むしろ土地をうしなって野盗化した人々の襲撃に備えたものであろう。

 平地の館には堀をめぐらしており、殿谷戸では背後の山で防いだが、城郭化するまでにはな

 っていない。

(同書P12〜3)

 このような『館』の例として、町田市小山田にある、『小山田城』があげられています。

 この城は、南側に口を開けた谷の奥の、谷戸に面したU字型の谷の地形を利用してつくったもので、現在ここにある大泉寺がその館跡といわれて

います。

 この『小山田城』は、承安元(1171)年ごろに、武蔵の国の名族秩父氏の一族である小山田有重によって築かれたといいます。そしてその小山田氏

が滅亡した元久2(1205)年から22年後に、小山田氏の菩提を弔うために、その館跡に建てられたのが大泉寺だといいます。

 大泉寺は、室町時代以後も何度か『城』としてつかわれているので、平安末〜鎌倉時代のままではありませんが、かなり当時の姿を残しているも

のと考えられ、この時期の『館』を考える良い例だと思われます。 

〔図 7  小山田城の地形(前掲書より転載)〕

A南北朝時代〜応仁の乱のころまで

  前時代につづき、鎌倉府がおかれたことで、武蔵や相模の武士たちの成長はなかったうえに、

 室町幕府創設のために利用される過程において、さらに弱体化が進んでいる。 これらの弱小

 武士は、地縁的結合体である国人一揆を組織し、政争を繰り返す大勢力のいずれかに属して家

 と所領を守ろうとしていた。この頃までの闘いは野戦が中心であり、城の発達はそれほどなかっ

 た。

  しかし、足利氏の内部抗争と南朝との対立という三巴の闘いが日常化するなかで、山城や沼

 地に臨んだ舌状台地などが利用され始めるが、天険の要害性の利用であって、縄張り的な進

 歩はない。

(前掲書15〜6ページ)

 この時代は関東においては城はあまり進歩しなかったようです。前の時代の『館』の形式が続き、戦闘に備えては、館の背後の山を利用して『砦』

としたり、一部関東山地に近い所では山城が築かれたようですが、自然地形をそのまま利用したにとどまっており、人工の施設は設けられていなか

ったようです。

 この時期の城はあまり残っていないようですが、近くにある城の中では、横浜市港北区小机町にある『小机城』の一部にこの時代の城の様相が残

されているようです。

 小机城の南の尾根続きの所にある金剛寺の裏山の城は、戦国時代初期、1473年ごろにつくられたものと考えられています。元は平安末〜鎌倉

時代に、この地域を開拓した武士の館がこの金剛寺の所にあり、裏山が砦として利用されていたようですが、後に現在のような形に改造されたよう

です。

〔図8 小机城跡の図(前掲書より転載)〕

B戦国時代前期(1478ごろ〜1550年ごろ)

  上杉氏内部の争いがおこり、野戦から攻城戦が多くなってくる。その間隙をついて、北条氏が

 武蔵に進出してくる。ここに、武蔵に生まれ育った人間とまったく外部からの侵略者との抗争とな

 り、城郭史の面で大きな変革がおこる。

  北条氏は、敵地の要衝にくさびを打ち込む形で城を作り、そこを根拠地にして、周辺を平定し

 ながら支城群を設けていく。当然上杉側の反撃があり、それに少数で対応するためには、天険

 の利用に加えて厳重な防備をほどこした城造りとなってくるのである。 

  また、城造りはとおい小田原などからの援軍を待つための、篭城に耐えうることも考慮されよ

 う。その結果北条氏の城には、いままでの城になかった外郭部が設置されてくる。

(前掲書17ページ)

 この時代の代表的な城として、横浜市港北区茅ヶ崎町にある『茅ヶ崎城』があげられ ています。この城は1521・2年ごろに北条氏によって築城

されたものと考えられ、 かなり当時の様相を残したもののようです。

〔図9 茅ヶ崎城跡(前掲書より転載)〕

 この城は、鶴見川の支流の早淵川の氾濫原に西から東に突き出た半島状の丘にあり、南から北にゆるやかに傾斜していた丘を順に削って曲輪

をつくったもので、最も高い所に横に並んだ3つの曲輪が城の中心部になります。その中央の曲輪が主郭で、城主か城代の屋敷があったのでしょ

う。そしてこの曲輪の西南の隅にある高所が、近世城郭の天守台にあたる櫓台です。北側の一段低い曲輪とその延長上の台地は台所曲輪ともよ

ぶべき日常生活の場で、家臣団の住居があったのではないでしょうか。このひろい部分が、長期の篭城には欠かせない、食糧などを保存する、城

の外郭部でありました。

 また、この城の図を見ると、主曲輪の南側には何段もの腰曲輪(外敵が直接城の中心部に攻め入らないように工夫した部分)を設け、そこには何

段にもわたって、土塁が作られています。前時代に比べて、かなり城の防備が厳重になっていることが分かります。

 また、同じ時代の城として、前述の港北区小机町の『小机城』があります。前時代に作られた古城の北側の台地がそれです。(上の図8のT・Uの

部分)台地の最も高い所に二つの曲輪があり、(UとTとの間にある受話器のような形をした曲輪と主郭Tとは、この時期にはつながった一つの曲

輪であったと考えられています)その西側の平坦な台地上に家臣団の住居や食糧倉庫、そしてこの台地の裾野をぐるっと囲むようにして、土塁と堀

(現在の台地を囲む道路の部分)が存在していたのでしょう。さらに北側の二つの中心的な曲輪は、何段もの腰曲輪や縦堀で守られており、この時

代の城の特徴が明らかです。

〔図10 小机城跡の図(前掲書より転載)〕

C戦国時代後期(1550年ごろから後)

  1551年の関東管領山内家の滅亡により、管領職をついだ長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄

  そして北条一族との対立抗争の時代となる。いわゆる永祿年間(1558〜70)  前後の約20年

 間に武蔵の城は質的にいちじるしい発展をみせることになる。

 ・(中略)・・(このころ多くの城が改修され、防備を固める)・・・・・・さらに後には本城・支城・連絡

 中継基地・純然たる烽火台・家臣の居館等、城の機能面での専門化が強化されてくる。

(前掲書18ページ)

 この時代の改修工事の跡を止めるものとして、前述の小机城があります。前時代には東西に並んでいた主曲輪のうち、西の曲輪(図8のU)を改

修し、大手や東曲輪(図8のT)からの入口を鉤型に曲げるなど、より防備を厳重に作ってあります。        

 またこの時代に大規模な改修工事を受けたものに、町田市三輪の『沢山城』があります。この城は、今私達が調べている「亀井城」とは、鶴見川を

挟んで相対する位置にあり、その間約1.2 q。かなり関連の深い城であったのでしょう。

 この城の北側には西から東に鶴見川が流れ、ちょうど城の北のあたりで、そこに麻生川・真光寺川が流れこみ、かなり広い低湿地帯をつくってい

ます(幅は500 mはあるでしょう)。この鶴見川にそって南からは、小机から来る街道が伸びて来ており、また城の南側からは、成瀬からの街道が伸

びており、両者の合流点に城は存在します。そしてここから北東へ多摩丘陵を越えて行けば多摩川を渡って、今の東京都府中市に出ます。まさに

交通の要衝にあった城といえます。

 城は、この低湿地帯に南から伸びている舌状台地の先端部全体を使用して作られています。南側の一番高いところ(図11のT)が天守にあたる

櫓。U・Vの曲輪が主郭にあたり、その北側、間に堀をはさんだ曲輪(図のW)が倉庫(焼き米が大量に出てきたそうです)、その北から西に広がる

三つの曲輪(図のX・Y・Z)が間を土塁や堀で区切られていて、ここが家臣団の家や馬場などになっていたのではないでしょうか。このW・X・Y・

Zの曲輪が外郭部分であり、ここを防備するために北側の高蔵寺・西側の熊野神社のあたりに出丸ともいえる部分があったのでしょう。東西500 m

にもおよぶ、かなり規模の大きい城です。

 [ 図11 沢山城跡(前掲書より転載)〕

ここで注目しておきたいことは、この城の役割です。城のWの曲輪から大量の焼米が出土したことや、この城に周辺の村々の馬や米を集めろと指

示した北条氏の印判状が付近の村に残っていることから、沢山城は、前線基地ではなく、周辺の村々を治める政庁の役目を持っていたのではない

かと言われています(前掲書132 ページ)。城の形の変遷からは外れますが、「亀井城」のすぐ西にあるこの城の性格は、「亀井城」を考える上で重

要でしょう。

Dまとめ

 以上が、平安時代末期から戦国時代にかけての武蔵の国での城の変遷です。この各時代の特徴と「亀井城」とを比較してみると、「亀井城」跡と

いわれる遺構の年代がほぼ明らかになるのではないでしょうか。

 印象的に言うと、現在の「亀井城」の遺構らしきものは、戦国時代初期に現れる城の腰曲輪のように見えます。また、この周辺で平安時代末期か

ら鎌倉時代の館の立地として適当なのは、「亀井城」の北側の谷戸の奥の平坦地か、谷戸の口にあたる、現在麻生不動尊のある所あたりが、候補

地にあげられそうです。今後じっくり調べておくべき課題といえるでしょう。


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