亀井城の謎(その2)
1.はじめに〔今までの研究の流れ〕
麻生区上麻生の月読神社の西の台地(現在の亀井住宅の地域)にあったとされる「亀井城」については、「源 義経の家臣であった亀井六郎の
城」という言い伝えがあります。柿生中考古学研究部では、1985年の4月から、この言い伝えが本当なのかどうかについて調べてきました。
昨年(1987)の3月までにわかったことは、次のとうりです。
@亀井六郎とは?
亀井六郎という人は、紀伊の国の名草郡の豪族、鈴木氏の一族で、兄の鈴木三郎重家と共に源 義経につかえて源平の戦いで戦功があり、後
に奥州平泉の高館の戦いで戦死したと、歴史人名辞典などには書かれています。
しかし、いろいろ調べているうちに、少し違う話がでてきました。
それは、亀井六郎は近江の国の佐々木氏の一族だというものです。
紀伊の名草郡藤白の鈴木家の家の伝えによると、「鈴木三郎重国というものがいた。縁あって源家に属して義朝の近くに仕えていた。(義朝の死
後、その子の)義経がまだ舎那王といっていた時に熊野詣でをして鈴木の館に逗留した。この時に、義経に仕えていた武士で佐々木秀義の六男、
亀井六郎重清を、重国の一子三郎重家と兄弟の誓いを結ばせた」といいます。〔『姓氏家系大辞典』太田 亨著 昭和11年刊 による〕
A「亀井城跡」の地形は?
亀井城のあったといわれる土地は、現在宅地造成されて住宅地になっていますが、その南側に「大手門にいたるらしい坂道がある」と、昭和3年
に編集された「柿生・岡上村誌」に書かれていました。そこで亀井住宅の南側の崖を調べてみると、亀井の丘をとり囲むような平地が崖の途中にあ
り、そこから下の県道(下麻生−市ヶ尾線)まで続く坂道がありました。
この2点について考えてみましょう。
亀井六郎が紀伊の鈴木の一族であったのか、それとも近江の佐々木の一族であったのか。これについては調べてみないと結論が出せません。
しかし、どちらであったにしても、関東からはかなり遠い地方の武士であり、源平の戦いで戦功があったにしても、これ程遠い地方に領地を得たこ
とに疑問を感じます。なぜかというと、武士というのは開拓領主であり、自らが切り開いた土地を領地とし、そこを基盤として戦いで領地を広げていく
ものでした。このことに変化が生じたのは、源平の戦いで源氏が勝利し、源 頼朝が鎌倉を拠点として武士政権の力を強め、諸国に守護・地頭を置
きはじめてからです。平氏の所領を没収し、その地に有力な御家人を守護・地頭として関東から派遣する。こうして、関東の御家人となった武士の中
から諸国に移動し、土着する者が出てきたわけです。
しかし、この守護・地頭が置かれたのは、亀井六郎の主人である源 義経が兄頼朝と対立し、頼朝追討の兵を挙げようとして失敗し、逃亡したこと
を切っ掛けとしていました。したがって、これ以前に武士が遠隔の地に領地を得ることはなかったのではないでしょうか。ましてや、関東の武士を基
盤として成立した鎌倉武士政権が、西国に対する影響力を強め、数少ない西国の御家人をまとめるために関東の有力御家人を派遣したのが守
護・地頭なのですから、逆に西国の武士が関東に領地を得ることなどなかったか、ごくまれな例ではないかと思います。
この点で、もう少し、鈴木・佐々木両氏について調べてみる必要があります。
また、亀井住宅の南側の崖の城跡のような「遺構」については、平安時代〜江戸時代の城の特徴を調べ、それと比較してみる必要があると思い
ます。
以上のような疑問に基づいて、今年は以下の事について調査・研究してみました。
@紀伊の鈴木氏についての研究。
A近江の佐々木氏についての研究。
B源義経とその家来についての研究。
C平安時代〜江戸時代の城の特徴についての調査・研究。
D「亀井城」跡についての調査と各時代の城との比較研究。
このうち@〜Bを歴史班が、CとDを地形班が調査・研究しました。