亀井城の謎(3)

研究のまとめ

顧問 川瀬 健一


 ここでは、「亀井城」研究の現段階でのまとめをすると共に、考古学研究部の活動テーマ全体のまとめをしておきたいと思います。

1)「亀井城」研究のまとめ

 現段階では、次のようにまとめられると思います。

@亀井住宅の南側斜面にある城の遺構と言われるものは、戦国時代の小田原北条氏の城の遺構で、城主は、小嶋佐渡守であると考えられる。
Aこの城は、平安時代からあった山城(砦)のあとを、戦国時代になって、小嶋佐渡守が改修して、現在の形になったのではないか。そして、城としての役割は、鶴見川の対岸 に沢山城が築城されて後に終わったものと思われる。
B「亀井城」と言われる所には、平安時代以来、土地の土豪的武士の館と砦があった可能性がある。館の位置は、現在の麻生不動尊の所か、その谷戸の少し奥の地ではないか。 この位置は、真福寺川の谷戸の水田地帯を前方に望み、東には鎌倉道が隣接する。そしてこの館の背後の亀井・麻生台の台地に砦はあったのではないか。
Cこの館と砦の主の名を特定することはできない。
D亀井六郎がこの館と砦を中心とした地域を領したという証拠はない。
Eしかし、亀井六郎が佐々木秀義の六男であり、渋谷重国の孫であるとすると、この亀井の地を領した可能性は高くなる。(ただし、この事を証明する直接の証拠はない)

 以上が、現在手に入れられる限りでの資料に基づく推測としての結論です。この推測を確かめるためには、さらに、次のような研究が必要でしょう。

(今後の課題)

1)亀井住宅の南斜面の「遺構」の発掘調査。亀井住宅の台地はすでに削平されており、調査することは不可能であるが、手付かずの南斜面は、土塁や柱穴などを確かめ、年代を 決定することは可能であると思われる。
2)麻生不動尊および、その奥の谷戸に面した斜面(碓井氏宅あたりか?)の発掘調査。館あとを確定するために必要だが、後世の建物が建っているため無理か?
3)小嶋佐渡守の出自など、北条氏との関わりなどを、さらに深める調査。
4)亀井六郎=佐々木六郎説を補強する研究。これには、渋谷荘の亀井野と亀井六郎の関係や、麻生を含む小山田荘と渋谷氏の関係などの研究が含まれる。

 ただし、以上の事は、「亀井城」が亀井六郎の城という事を結論づけられると前提した上での推論であることは明記しなければなりません。決定的な論証ができないまでも、かなり該然性が高い資料を見つけない限り、推測でしかないのです。
 従って、可能性として、「亀井城が亀井六郎の城」というのは、単なる後世の作り話しであるという結論も成り立つのです。
 これは、麻生の地に、紀州の鈴木氏の流れを汲む鈴木一族が多く居住し、ここにも熊野神社が散在するという事実に基づきます。麻生の鈴木氏がいつからここに居住したかを示す資料はありません。周辺の鈴木氏に関する資料から、室町時代以後と考えるのが、最も妥当性が高いと思われます。時は「義経記」が成立した時代。「義経記」は義経よりもむしろ、山伏である弁慶を主人公とした物語。それは熊野神社の信仰を全国に広めた山伏たちの間で成立した物語と考えられています。鈴木氏はその山伏の流れを汲む一族。
 従って、彼等がこの麻生の地に移りすみ、ここに根を下ろした時、「亀井」の地名と、平安以来の「古城」があり、場所は鎌倉道に沿い、東海道から奥州道へと連絡する交通の要衝。この条件の下に、鈴木一族が、彼等の祖先と伝えられていた亀井六郎と亀井の地を結びつけて、「亀井六郎伝説」が成立したと考えることもできるのです。 
 この方向での調査研究も考えてみると良いと思います。

 以上が「亀井城」研究の現段階でのまとめです。

2)その他考古学研究部の研究テーマのまとめ

 14年間の考古学研究部の活動によって、柿生の歴史の様々な面を明らかにできたと思います。しかし、やり残したことも多くあります。第4号をまとめるにあたり、最後にこの点を記しておきたいと思います。

a)古墳時代の柿生の研究

 ここでいう古墳時代は「古墳」が築造されてきた時代という意味であり、ここには奈良時代初頭も含まれます。麻生川・真光寺川・鶴見川・真福寺川などの諸河川の合流点である、川崎市麻生区・東京都町田市・横浜市緑区にまたがる此の一帯。ここを単一の地域と見て「柿生」とよんできました。ここには、多くの横穴古墳が存在すること。これを明らかにしたのが、考古学部の77年から85年までの活動です。自分たちで発見し調査した横穴古墳は、7群30穴に及びました。この概略については、東原信行氏が川崎市文化財調査集録第20集(1984年刊行)に「川崎市最北西部谷本川流域の横穴古墳群」と題した調査報告を発表されています。しかし、鶴見川流域全体の横穴古墳との比較研究を踏まえた上で、柿生地区の横穴古墳の特徴を明らかにした研究は、まだなされていません。
 なお、上記の横穴古墳の内、仲村2区2号横穴には「永仁六年」「南無」の文字が奥壁に刻まれており、鎌倉時代の1298年に武士の墓「やぐら」として再利用されていることが、村田文夫(現在川崎市民ミュージアム学芸員)氏が三浦古文化31号(1982年6月刊行)に「『永仁六年』在銘の再利用された横穴古墳」と題して発表している。
 さらに、真福寺白山2区3号横穴には、奥壁に人物像が線刻されていることが、発見当初から知られていたが、92年夏に村田文夫氏らが調査した所、「地蔵菩薩像」であることが確認され、この横穴古墳も鎌倉時代に再利用されていることが明らかになった(未発表)。
 以上3点は、専門家によって研究された例ですが、30穴の内、麻生台横穴古墳群のみが専門家の手によって発掘されているのみ(1978年刊「川崎市多摩区麻生台古墳発掘調査概報」を参照)で、他は未発掘であり、これらの発掘調査の実施も、今後に残された課題といえます。
 なお、柿生地区の遺跡は、発掘調査された例が最近増加し、上記の麻生台横穴古墳群を除けば、以下の6遺跡がある。

 ○早野横穴古墳群2区1号(川崎市文化財調査集録第9集、1974年刊参照)
 ○大ヶ谷戸遺跡(製鉄遺跡)(大ヶ谷戸遺跡発掘調査報告書、1986年刊参照)
 ○山口台遺跡群・上台遺跡(掘っ立て柱遺構を含む集落)(第9回神奈川県遺跡調査研究発表会発表要旨、1985年刊参照)
 ○岡上川井田下横穴(報告書は刊行されていない)
 ○岡上丸山遺跡(岡上小学校建設に伴う遺跡調査で発見。村落跡)
 ○東柿生小学校遺跡(93年に発掘調査された。寺院跡。報告書はまだ出ていない)

 これらに、東京都側で、発掘調査されたものを加えると以下のようになります。

 ○鶴川遺跡群R地点横穴群
 ○鶴川遺跡群能ヶ谷カゴ山横穴群
 ○鶴川遺跡群H地点遺跡(牧の遺構)(以上は鶴川遺跡群調査報告書1973年刊参照)  
 ○三輪玉田谷戸横穴群(町田市史参照)                     
 ○三輪白坂横穴群(町田市史参照)
 ○西谷戸横穴群(町田市史参照)

 しかも、これらの発掘調査をもとにして、柿生地区の古墳時代から奈良・平安期を復元考察したものはなく、唯一専門家の手になるものとしては、三輪修三・村田文夫氏による「川崎市多摩区早野横穴古墳線刻画の一考察」(三浦古文化第18号、1975年刊) という論文で、古代の牧「石川の牧」に関連して述べられたものがあるのみ。考古学研究部のものとしては、「あしあと」第2号所収の「幻の観音像−王禅寺伝説の解読(その2)−」(1987年刊) で、簡単なスケッチを試みたのみです。今後、最近の発掘成果をもとにして、研究してみる必要があると思います。

b)王禅寺伝説の解読

 これは、王禅寺の開闢にかかわる伝説の真偽を研究したもので、現在王禅寺に伝来している「閻浮檀金聖観音略縁起」が後世の偽作ではなく、真実を伝えている可能性が強いことを検証したもの。
 ここでは、柿生地区の考古学的地知見をもとにして、「縁起」の信憑性が高いことを論証した(前記「幻の観音像」を参照)が、ここにも、いくつか課題がのこされている。

@もっとも重要なのは、現在の王禅寺の観音像の調査が行われていないこと。解体修理を おこなって、この像の製作年代を明らかにすることと、体内に1寸8分の観音像が入っ ていないかを調査したいものである。
A王禅寺に関する考古学的調査。境内の調査はもとより、その寺域の一部もしくはかって そこに王禅寺があったと言われている東柿生小学校の発掘調査が重要。その意味で、前 記の発掘調査の結果報告が待ち望まれます。
B王禅寺の正式の開闢伝説「無空上人伝説」の解明。これは、「あしあと」第2号で、一 部展開しているが、この正式の開闢伝説と前記の開闢伝説の関係を明らかにしておかな いといけないと思う。

c)麻生不動尊についての研究

 鎌倉時代の願行上人によって造られたとされる不動像。その真偽を研究したわけだが、全くの研究不足のままに終わってしまった。願行上人が幕府の執権北条氏と密接な関係があり、麻生の地が執権の一族である甘縄氏の所領でもあることから、「願行上人が鉄造りの不動像を3体つくり、1体を大山不動、もう1体を鎌倉の大楽寺に、残り1体を麻生不動に置いた」という、麻生不動に伝えられる縁起に、真実が伝えられている可能性があると思われる。しかし、その証拠が全く、現在の所ではつかめていません。
 これを研究するには、以下のような課題が考えられます。

@麻生不動が鉄仏かどうかの調査。他の2体は鉄仏であるとは確認されています。縁起 の真偽を確かめる上での基本的調査と言えましょう。
A願行上人が3体の鉄の不動像をつくったという伝承、そしてそれが上記の3体だという ことを証明する調査・研究。麻生不動は全くの未調査だとしても、他の2体は有名な鉄 仏です。それぞれについての研究を調べて、その作風などから、同一人物の作といえる のかどうか。調査してみれば良いでしょう。
B傍証として、北条氏と麻生の関係を調べてみることも必要だと思います。

 以上が、考古学研究部の活動の中で、一定程度研究を深めてみたテーマについての、残された課題です。
 しかし、この柿生の地は、歴史的にもおもしろい題材に富んだ地で、これ以外にも、たくさん研究してみたいテーマがありました。でも、その多くは全く手をつけないままで終わってしまいました。後日、私達が研究できるかどうかわかりませんが、後日を期して、最後に、ここに列記することで、研究のまとめとします。

d)残された諸テーマ

○柿生の高塚古墳の研究

  東柿生小学校のある平地(真福寺川と王禅寺谷戸の川が谷本川−鶴見川に合流する所に形成された平野)を望む台地上に散在する。月読神社の境内に3基、真福寺川をはさ んだ北側の台地上に3基ある。あとは平地の東端の子の神社境内に1基かっては存在していた。これらが発掘調査されていないのが残念であるが、同じ地域に散在する横穴古 墳群とも併せ、古代の柿生を復元するに重要なものと思います。

○岡上阿部原廃寺の研究

  武蔵国分寺と同じ瓦が出土し、寺院跡ということになっています。寺院跡ということになると、いくつか疑問がわいてきます。

 @この寺院を造らせた者は誰か?
 Aかなり早い時期に仏教を受容しているが、それは何故か?
 B周辺に散在する火葬蔵骨器による墳墓を営んだ人々との関係は?

  さらに、ここは、瓦を焼いた窯跡という説もあり、国分寺との関係や、朝鮮伝来の先端技術である瓦焼生技術が、なぜこの麻生の地で営まれたのかなど、この面からも、多 くの疑問がわいてきます。

○岡上東光院の研究

  この寺の縁起も面白い。「聖武天皇の時代に、行基菩薩が関東をまわったとき、向かいの丘に夜毎光るものがあり、森の中をさがすと金色に輝く観音像が見つかったので、 お堂を立てて安置した」というもの。前記の王禅寺の縁起とも似通っており、何よりも 先の阿部原廃寺跡のすぐ北側にあるというのも興味深い。
  さらに同寺に安置されている平安後期の仏像「兜跋毘沙門天立像」についても、いくつもの疑問が出てくる。

 @兜跋毘沙門天はなぜ造られたか。この神は仏教の守護神の一つであるが、都の東の守りの神でもあるという。平安後期に、ここ麻生にこれが立てられた目的は何か。
 Aまたこの仏像をつくらせた在地の勢力とは誰か?

○東柿生小学校周辺の4つの塚の研究。

  ここには「牛塚」「狐塚」が現存し、かっては他に「経塚」と無名の塚と2つあった ことが「新編武蔵風土記稿」によって知られる。牛塚と狐塚は古墳ということになって いるが、全く調査もされていない。しかし、この4つの塚が東柿生小学校をかこむよう にして、その敷地の東西南北の角地にあること。そして、この東柿生小学校の地は、王 禅寺があった所とも、かって薬師寺があったところとも伝えられていること。さらに、 4つの塚の一つが「経塚」とよばれていること。そして、無名の塚を戦時中に崩した時 に「仏像が出た」とも言われていること。その上、地元には、この4つの塚は「昔王禅 寺がここにあってそれが焼けた時、その焼け残りを埋めた塚」との言い伝えがある事。  これらの事を考えてみると、古墳ではなく、経塚と考えてみた方が良いと思われる。 東柿生小学校の発掘調査の結果と併せて考える必要があるだろう。

○柿生地区の板碑の研究。

  鎌倉〜室町時代の板碑がたくさん発見されている。東柿生小学校の北側と岡上東光院の周辺に集中しており、この時代に板碑を建てて、子孫の繁栄を願えたのは武士である から、当時の社会を考えるに貴重であると思います。(なお、柿生中学校にも、板碑の残片があります。どこから出土したものかは不明ですが。)

 このほかにも、「考古学研究」部の守備範囲はこえますが、いくつもおもしろいテーマはあります。

○自由民権運動と柿生

  王禅寺の琴平神社にある日露戦争の戦没者記念碑の文字は、当時の衆議院議長である自由党の河野広中。福島自由党の闘士であった彼が、何故柿生の地の慰霊碑の書を書い たのか。柿生の西隣の鶴川や野津田は、神奈川自由党の発祥の地であり、多くの有力党員がおり、幕末よりたくさんの私塾があったという。隣接地の柿生もそれらと同じく、かっては天領であり、多くの地主たちが私塾をひらいていたものと思われます。柿生小 学校の前身が1872年の学制発布の直後に作られたことを考えれば、柿生でも、自由民権運動が激しく行われたに違いありません。

○戦時中の朝鮮人強制連行と柿生

  かっての柿生郵便局(駅前のハンバーガーの店の所)の裏の谷戸から、柿生中学校の裏の山を越えた谷戸(現在の切り通しを越えた所の森ヶ丘の所)まで、山をぶち抜いて トンネルが掘られてあったといいます。これは大本営の管轄で、常に見張りの兵隊が立っており、一般人は立ち入り禁止だった。このトンネルの建設は強制連行された朝鮮の人たちが掘ったと地元では言われています。新百合ヶ丘駅の下には、大本営の本部とも いわれる地下濠があったとも言われ、それとの関連も含めて、興味深いテーマです。 

 以上思いつくままに列記しただけになってしまいました。

 これ以外にも、様々なテーマが考えられるのですが、このへんでやめておきましょう。これらの一つ一つについて、いつか機会があれば研究してみたいし、誰か柿生の歴史に興味関心のある人が、研究してくれることをを願いつつ、研究のまとめを終わりたいと思います。

 最後に、柿生中考古学研究部が活動するにあたって、たくさんの援助をいただいた地域の方々への感謝の念を誌上を借りて述べさせていただくと共に、14年間にわたる研究成果が散逸しないことを願いつつ、筆を置きたいと思います。

(1994年1月6日 元顧問 川瀬  記す)


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