第4号発行にあたって

                                   川崎市立柿生中学校考古学研究部  元顧問   川瀬   健一


 1977年に発足した考古学研究部(当時は歴史研究部という名称であった)が14年間の活動の歴史を終えた90年3月から、早いもので、もうす

ぐ4年の歳月が過ぎようとしています。

 90年8月に発行した「あしあと」第3号で発行を予告しながら、88年以後の研究をまとめた第4号の発行は大幅に遅れ、ようやく3年の月日をかけ

て、ここに発行する所までこぎつけました。88年3月の顧問の転勤以後も、生徒達の手によって研究活動が続けられ、90年3月に最後の部員達が

卒業したあとも、それぞれ違った高校に進学した部員達が集まって研究を続け、ここに「亀井城研究」の、とりあえずのまとめが発行できることは、

喜びにたえません。

 第4号を発行し、「亀井城研究」に一応の区切りをつけるにあたり、研究の経過を少し振り返ってみたいと思います。

 柿生中学校の南側の麻生台団地。この地に隣接する亀井の台地には、源九郎義経の家臣の一人であった、亀井六郎重清の城があり、大手門

への道らしきものがあるということは、昔から、言い伝えられてきました。この「亀井」台地の裾に住む、小島基樹君が、「先祖の小島佐渡守」の城か

もしれないということで研究をはじめたのが、85年の4月。しかし、史料が少なく、唯一の手掛りは、亀井住宅から常安寺横の坂(城坂と呼ばれてい

る)をおりた竹薮の中にある、「大手門への道」といわれた遺構唯一つというしまつ。研究と言っても、ほとんど五里霧中という状況でした。

 ようやく手掛りを得たのは、86年に「大手門への道」とその付近を実測調査して、どうやら「城の遺構」と言われるものが、戦国時代の山城らしいと

わかった所。そこから、周辺の戦国時代の城の見学調査や戦国時代の武将小島佐渡守の研究などをてがけ、現在のこっている「亀井城」が、戦国

時代の小田原北条氏の城であり、城主は小島佐渡守ではないかということが、推測されるようになってきました。これが87年の秋のこと。この小島

佐渡守と「亀井城」との関係を探っていったのが、88年以後のおもな活動テーマとなっていきました。(詳しくは本号の『「亀井城」は誰の城か』を参

照してください)

 しかし、研究テーマの肝心な所である「亀井六郎の城」という点については、亀井六郎という人の事がよくわからず、紀州(和歌山県)の鈴木氏の

出であるという通説に従うと遠く離れた関東の地に城があるということが全く理解できず、「亀井六郎の城」というのは作り話としか思えませんでし

た。唯一通説とは違った方向への手掛りは、『姓氏家系大辞典』という昭和初期に出された本に「近江(滋賀県)の武士佐々木秀義の六男で、鈴木

三郎重家と義兄弟となった」という紀州鈴木家に伝わる家の伝えとしての記述。だが、これとて、その裏付けとなる資料がなく、やはり暗中模索の状

況でした。

 この状況に一つの方向を与えてくれたのが、伊藤葦天氏の著書「稲毛郷土史」の記述でありました。この記述に基づいて、前9年の役(1051 〜62)

後3年の役(1083 〜87) での恩賞として麻生の地を得た鈴木氏が亀井城を築いたと部員の佐藤康人君が発表したのが、89年の秋のことでした

(本号の『亀井城はなぜ築かれた』を参照のこと)。

 しかし、この伊藤氏の説も間違いではないかという疑問は、この89年当時からありましたが、決め手となるものがなく、90年3月の部員たちの卒

業以後に、それは持ち越されました。

 第4号では、この伊藤氏の説に疑問を投げ掛け、一定の方向を出したのも、研究の一つの柱となっています(詳しくは本号の『亀井六郎重清と佐

々木六郎厳秀は同一人物?』と『亀井六郎は本当に鈴木一族か?』を参照してください)。

 85年に開始した亀井城の研究。一応の結論を出すまでに、なんと9年の歳月がたってしまいました。実際には、今回の第4号で出した結論は、

89年段階で、ほぼ骨格は出来上がっていたといえます。それが、その時点でまとめられなかったのは、顧問であった私が転勤のため、部員たちの

側について研究討議を常に繰り返すことができなかったからです。手紙のやりとりや電話での相談はしましたが、やはり、一緒に調査研究している

のとは違います。そして90年の部員たちの卒業と、考古学研究部の消滅という事態。

 この二つの障害を乗り越えて、ここに一定の研究のまとめを出せたのは、顧問なしでも研究を諦めなかった、5人の一年生部員(88年3月当時)

の、執念の賜物であります。最後にこの5人の名前を記すとともに、熱心に研究を続けてきてくれた彼等に感謝して、第4号発行のことばとさせてい

ただきます。

〔研究をまとめた5人の部員〕

     佐藤  康人・倉持   亘・保科  秀幸・新田  孝章・武内   守

                                                                                                              (1994年1月3日 記す)


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