古墳〜奈良時代の柿生

                              川瀬 健一(柿生中職員)・考古学研究部およびOB


 柿生というと、「草深い田舎」というイメージがあるようですが、奈良時代(八世紀)の頃には、日本全体でもかなり高い文化をもっ

た地域であったようです。以下に、1977年に実質的に考古学研究部の活動が始まってから、今日までの調査の概要をお知らせします。

 

100コ以上も古墳が集中した地域

 柿生を広い意味で使って、鶴見川に真光寺川、麻生川などがそそぎこむ地域全体ととらえると下の図1のように100以上もの古墳が集

中している地域である事がわかります。

<横穴古墳>

@ 早野横穴古墳群(6コの横穴)……壁に馬の絵あり……
A
王禅寺口横穴古墳群(10コの横穴)
B
花島横穴古墳群(1コの横穴)……工事のため消滅……
C
真福寺白山横穴古墳群(6コの横穴)
D
麻生台横穴古墳群(3コの横穴)……鉄刀と首飾り出土……
E
亀井横穴古墳群(2コの横穴)……一つは消滅
F
仲村横穴古墳群(4コの横穴)……鎌倉武士も墓に利用
G
能ケ谷カゴ山横穴古墳群(19コの横穴)……40コ以上あったと推定。壁に馬の絵あり
H
杉山下横穴古墳群(2コの横穴)……工事のため消滅…
I
川井田下横穴古墳群(1コの横穴)……金製耳飾り出土…
J
白坂横穴古墳群(13コの横穴)…… 10コ消滅、鉄刀出土
K 西谷戸横穴古墳群
(6コの横穴)
L
下三輪横穴古墳群(4コの横穴)……家の形をした横穴

<円墳>

M 牛塚
N
狐塚
O
子の神社古墳
P
無名
Q
亀井古墳

 ただし古墳と言っても、仁徳陵のように数百メートルの長さがあるものではなく、直径20m程の円墳(土を盛りあげた物)や、山の崖

に、長さ5m程の穴をあけた横穴古墳(下の図2)というものです。

 これらの墓は、当時の村落(里とよぶ)を治めた下級の豪族(権力者)のもので、内部には金製の耳飾や宝石でできた首飾り、金銀・宝石で

飾った鉄刀が入っている事から、「下級」といっても、かなりの力をもった人々の墓であることがわかります。

 合計すると77コの横穴が確認されており、未確認のものも含めると100以上にもなります。

 さらにこの他に円墳として7コあることが知られており、東柿生小周辺は、江戸時代の地名で塚原と呼ばれており、これに止まらない

事が想像されています。

 

仏教文化を早期にとり入れた先進地域

 柿生地区の豪族の墓は以上の通りですが、もっと注目すべき事実があります。それは、外来の先進文化である仏教文化がきわめて早

く取り入れられたらしい形跡が見られる事です。例えば・・・・・・

 @ 岡上の東光院の南にある阿部の原廃寺(図1のR)

  ここからは奈良時代の寺院につかった瓦が多数出土しています。しかもこれは武蔵国分寺(東京の国分寺市)と同型式のものと考えら

  れ、寺の跡とすると鶴見川流域でも数少ないーつです。

 A 火葬の風習が見られる事

  古墳から奈良時代の葬法は、土葬であり、火葬という仏教にともなう葬法は、古墳時代末から一部でつかわれたにすぎません。しか

  し柿生地区の横穴古墳のいくつかからは、火葬骨がみつかっています。さらに柿生を含む、麻生区と横浜の緑区には、「火葬蔵骨

  器」(下の)とよばれる、火葬骨を陶製の骨つぼに入れた墓が数多く見られ、これは横穴古墳の分布とも重なっています。この型

  のタイプの墓があるのはここ以外に奈良と群馬しかなく、極めて先進的な仏教文化の地と考えられています。(ただし柿生地区には

  まだ発見されていません。※この論を書いたときはまだ知りませんでしたが、百合が丘の弘法の松付近から一つ発見されていること

   が後に判明しました)

進んだ文化の背景は何か ?

 柿生地区の奈良時代の文化は、以上簡単にみたように極めて高いものです。

 ではその背景は何でしうか。考えられる事は・・・・

 @ 柿生が相模の国府(海老名市付近)と武蔵の国府(東京の府中市附近)とを結ぶ道の途中にあること。

 A 横穴に馬や騎馬の人物像がある事と、奈良平安の石川の牧(朝廷に必要な馬を育てる所)がこのあたりから緑区の元石川地区を含む所

  にあったと考えられ、軍事力の中心である馬をおさえた力のある豪族の居住地の可能性があること。

 B 柿生が属していた武蔵国都筑郡には、飛鳥部の〇〇という朝鮮からの渡来氏族が居住していたらしいこと。

 以上の様な事が考えられます。

  岡上から、「都」という漢字を墨書した土器が出ている事も、進んだ文化の存在を教えているようです。

 この地域にはどんな人々が住んでいたのでしょう。もっと深く知りたいテーマです。

                           柿生中学校刊「うれ柿第35号」1983.3所収


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