鎌倉武士の墓につかわれた横穴古墳
川瀬健一
麻生(注1)には、古墳時代末から奈良時代(七世紀からハ世紀)にかけて、仏教文化という、当時では最も進んだ文化をもった豪族の墓
がたくさんありました。それが全部で13ケ所にわかれて存在する、77個の横穴古墳です(分布地図は、うれ柿第35号45ページ参照)。
岡上の東光院の南側の丘陵にあった阿部の原廃寺の存在からも、奈良時代までのこの地域が、進んだ文化の地域であったことがわかり
ます。(注2)
<横穴古墳> |
<円墳> M 牛塚 |
では、その後の時代はどうだったのでしょうか。
永仁六年の年号がほられた横穴古墳
下麻生字仲村250番地の南に向いた山林中に、県道下麻生ー市ヶ尾線に面して、二つの横穴古墳があります。現在、仲村横穴古墳群2
区1号、2号とよばれている古墳です(上の地図のEの〔2〕の古墳)。
この古墳は、1977年12月に、麻生台団地の給水塔付近の工事現場で、柿中の一年生が破壊されかけている横穴古墳を発見し、それが古
墳かどうかを近所の人に聞いてまわっている時、土地の方から穴があることを聞き、横穴古墳であることを確認したものです。
これは、図1のようにニつの横穴古墳が接してつくられ、戦争中に防空壕としてつかうために、横の壁に穴を開けられ、つながったも
のです。1号は、全長1.69m以上、奥壁の高さ2.09m、穴の幅は奥壁の下で2.92メートル、2号は、全長2.35m以上、奥壁の高さ2.08m
幅は2.45mの大きさであり、共に入口付近が削りとられ、全長は、奈良時代につくられた時より、かなり短くなっています。
この古墳はこの時代につくられたものとしては、ごく普通のものでどこにでもあるものです。だから始めはだれも注目しませんでし
た。ところが1号古墳の奥壁をじっくりしらべていたら、そこに文字がいくつも彫られていました。「永仁六年」という文字が3ヶ所
に、「南無・・・・・・」という文字が1ケ所、「念佛…・・・」という文字が1ケ所ありました。(図2参照)
そしてこの文字と幅も深さも同じくらいの線で、奥壁の中央に同心円上のものが何本かと、他にいくつもの図形の様なものが見られま
した。もちろん、その中には、明らかに最近ほったことがはっきりしているものもありますが、先程の文字と他のいくつかの図形はこの
古墳がつくられた当時か、その後それ程最近ではない時期に彫られたことはすぐにわかりました。(図3参照)
その後、専門家に見てもらった所では、先の「永仁六年」という文字は、市内および関東地方で出土した板碑(注3)の中で年代のわか
っているものとの比較の結果、鎌倉時代の永仁年間(1293年から1298年まで)のものであることがはっきりしました。
さらに、「南無」「念佛」などの文字は、供養のためのものと考えられるので、この仲村横穴古墳群二区一号は、奈良時代につくられ
て、1度遺骸を埋葬した後に入口をふさがれ、それが何かの理由で再び開かれて、墓として再利用されたのではないかということがわか
りました。
おそらくは、鎌倉武士が崖に穴をほって、そこに遺骸をおさめた「やぐら」と呼ばれる墓として再利用されたのであろうとのことで
す。(注4)
鎌倉時代の麻生地域
麻生地域には仏教文化をもった先進的な豪族が、奈良時代にはいたことは、古墳や寺院あとからわかります。しかし、その後の平安鎌
倉時代の様子は、あまり良くわかっていません。
しかし、岡上東光院に安置され、東光院付近から出土したと伝えられる、11世紀の兜跋毘沙門天立像の存在や、下麻生の東柿生小付近
の古い地名が塚原といい、牛塚・狐塚・子の神社(古墳)以外にも、いくつも円墳状の塚があったこと。しかも土地の人の伝えるところで
は、戦時中に開墾のために塚をこわした所、中から仏像などが出てきたということ。さらに麻生郷は平安期には、小山田庄という庄園に
含まれ、この地域が前代にひきつづき、牧として利用されていたこと。これらの断片的事実から、その後も麻生地域は、仏教文化をもつ
豪族層の生活がつづいていた事がうかがいしれます。
さらに、仲村横穴古墳群から500m程南東に下った地域を亀井といい(上の地図のDEFQに囲まれた地域)、この、現在月読神社か
ら警察団地にいたる丘陵は、土地の言い伝えでは亀井城あとといわれ、源平時代の椿亀井六郎の城跡と伝えられています。しかもこの地
は中世の城あとにふさわしい地形をそなえており、さらに麻生郷内には、堀内という、武士の館があったことを示す地名があったことを
古い文書が伝えているので、仲村横穴群2区1号が、鎌倉武士の墓として利用されたと考えてさしつかえないようです。
鎌倉時代の麻生地域のくわしい事は、あまり良くわかっていません。しかし仲村横穴群2区1号が、「やぐら」として再利用されたと
するならば、この麻生の地に、鎌倉幕府と密接なつながりをもち鎌倉武士の浄土の世界を夢見た文化の中で生活していた武士の存在がお
ぼろげなから、うかんできます。
永仁六年(1298年)といえば、その前年の永仁五年に、領地を借財によってうしなった御家人(鎌倉幕府の将軍の家来である武士)を救う
ために徳政令が出された翌年にあたります。このころの麻生はどうなっていたのか。横穴古墳を調査していく過程での副産物ですが、興
味深いテーマです。
(注1) 柿生とよばれる上麻生・下麻生・王禅寺・早野・片平・黒川・五力田・万福寺の地域は、周辺の鶴川・岡上・三輪を含めて、古
代には、武蔵国都筑(つづき)郡麻生郷に属していたと考えられるので、地域名として麻生と呼びます。
(注2) 阿部の原廃寺あとからはハ世紀中頃のものと考えられる布目瓦や、丹(に)の付着した瓦、「岡」「荘」「国」などの文字が墨で書
かれた土器が出ており、都筑郡の郡司のー員である豪族がたてたものと考えられています。
(注3) 板石塔婆(ばんせきとうば)とも言い、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られたもので、関東地方に
多い。麻生地域からも多く出土しているようです。
(注4) この推定は、川崎市教育委員会文化課におられる(この文が書かれた当時)、村田文夫氏の論文(三浦古文化第31号所収)におい
て、村田氏が考察の結果出された考えです。ここに書いた鎌倉時代の麻生についての描写も、村田氏の考察に全面的に依拠してい
ます。
(社会科教諭)
柿生中刊「うれ柿第36号」(1984.3)所収