「幻の観音像」
ー王禅寺伝説についての一仮説ー

                                         考古学研究部・顧問


 うれ柿第38号に、「王禅寺伝説」の解読と題して、考古学研究部の研究成果を発表しました。この時は資料が不充分のために解読す

るまでには到りませんでしたが、この一年間の研究活動の中で、新しい重要な資料が見つかりましたので、この資料に基づいて、考古

学研究部としての仮説を立ててみたいと思います。

 

一、王禅寺略縁起

 王禅寺の始まりについては、「夢のお告げ伝説」というものがあり、最初は弘法の松付近に建立されたが戦火に追われ、東柿生小の

所、現在王禅寺のある所へと移転したという伝説がありました。この伝説がどのような資料に基づいているのかわからなかったのです

が、神奈川県史に、王禅寺の琴平神社の宮司さんの家に伝わる、「王禅寺略縁起」が掲載されており、これがこの伝説の根拠になってい

る事がわかりました。そこで、この略縁起を紹介し、考察してみたいと思います。

 この縁起は

@「それ、当寺本尊閻浮檀金(えんぶだこん)注1の聖観世音菩薩(

土鋳造、一寸八分)

 という文章から始まります。つまり、王禅寺の本尊は、金製の約5.4cmの観音像で、それは唐士(からつち)一般に外国をさし、古代

においては韓土(からつち)、つまり朝鮮でつくられた物であるとしています。

 続いて、

Aこの観音像は、天平宝字元年(七五七)に孝謙女帝の夢のお告げ

によって、武蔵の国の都筑郡二本松の谷間の岩の中から見つかった

ものであること。そして王禅寺は、この仏像を本尊とし、女帝の命

によって建てられた

 と記してあります。

 そして、

B後に兵火で焼け、観音像のみは空を飛び、現在王禅寺のある山中

の木の上にうつり、毎夜不思議な光を出した。

 その後

C数百年たって後に、崇徳天皇(一一二三〜四一年在位。後一 一五

六年まで上皇)の夢のお告げで観音像が再発見され、その地に寺院

が再建されたと記してあります。

 さらに

D王禅寺は、小田原の北条氏直(一五六二〜九二)の庇護を受けて

栄え、一五九0年の北条氏滅亡後は、徳川将軍家の庇護を受けて、

寺はますます栄えた

 と記し、仏法の栄えは徳川家の御威光と、将軍家を持ちあげています。

 そして最後に

E今の地に寺院を建て、この観音像を安置した時、仏師運慶作の4

尺余(約一二一cm)の仏像の胎内に、この小観音像を納めた

 という一文を記して、この略縁起はおわっています。

 

二、略縁起の分析

 

 この略縁起は、その内容からして、前述のとうりに6つの段落にわける事ができます。そして、@〜Cの段落は、本尊の由来と、現

在の地に王禅寺が建てられるに至った歴史が述べられ、この部分が略縁起の表題の「閻浮檀金聖観音略縁起」にふさわしい内容といえ

ます。

 しかし、Dの段落は内容が一変します。ここでは時代がいっきに四百年もとんで、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての王禅寺と

権力者との関係に飛び、ここで特徴のある事は、徳川将軍家をしきりに持ち上げていることです。

 さらにEの段落は、話がまたCの段落の時にもどり、この時に本尊の聖観音像がどうなったかを記しています。

 このように考えてみると、興味深い事実に気がつきます。

 すなわち、この略縁起は、本尊聖観音の由来についての記述は、平安時代末の王禅寺再建の時点までしか語っておらず、その後の、鎌

倉・室町時代四百年間の記述を全く欠いていることです。

 これは何を意味するのでしょうか。これを解決する鍵は、この略縁起の末尾の部分にありました。

 末尾には、

「慶安三(庚寅)年十一日改写 王禅寺 快尊」

 とあります。つまりこの略縁起は、昔からあったものではなく、慶安三年(一六五0年)に書き改ためられたものだという事が書かれて

いるわけです。

 おそらく元の略縁起は、現在伝わっているもののDの段落を除いたもの、つまり平安時代末の王禅寺再建の時点までのものであった

のでしょう。それを慶安三年に王禅寺の僧快尊が書き改め、その後の時代、つまりDの部分を書き足したのだと思います。そしてその

時、王禅寺についての鎌倉〜室町時代四百年間の歴史を示す資料が全く残っていなかったので、この四百年間についての事は書き足せ

なかったのではないでしょうか。

 このことから、元の略縁起は鎌倉時代に成立したものと思われます。そしてその後、火災などによって多くの記録が失われてしまっ

たのではないでしょうか。

 これは推測にすぎませんが、こう推測する根拠がもうーつあります。それは、平安末に王禅寺を再建した時に、一寸八分の観音像を胎

内に納めたという、四尺余の仏像が現在ないという事です。この四尺余の仏像は本尊である観音を胎内に納めたものですから、これ自身

が通常は本尊として、本堂の中央におかれたに違いありません。ですからこれも観音像でしょう。しかし王禅寺には四尺余の観音像はあ

りません。あるのは、現在本尊とされる二尺八寸(約八五cm)の観音像のみです。そしてこの二尺八寸の観音像は、江戸時代の末には、す

でに本尊となっていました。

 文化十三(一八一六)年に江戸幕府の昌平坂学問所によって編集された「新編武蔵風土記稿」の王禅寺の条は、次のように記してい

ます。

本堂、七間四方で、南向きである。大悲閣注2の三字を門に掲げて

いる。本尊は観音の木の坐像で、長さは二尺八寸ばかり。これは、

後世に造ったものであるという。昔の本尊はいつの頃か失って今は

ない…・・・・・・・・・。

と。

 この「昔の本尊」が、平安末につくられたという四尺余の仏像なのではないでしょうか。これが失われた原因、やはり火災でという

のが妥当だと思います。

 以上の考察をまとめてみますと、次のようになります。

@ 王禅寺は鎌倉時代にはすでに寺として成立しており、「閻浮檀

  金聖観音略縁起」という由来記をもっていた。

A そしてその後の歴史の変遷の中で多くの資料が失われたが、王

  禅寺そのものは権力者の援助を受けて栄えた。

B 江戸時代に入って王禅寺は、これまでの寺領を幕府から保証さ

  れ、これを機に略縁起が書き改められた

 以上のようになると思います。

 

三、略縁起は事実か

 

 さて、以上のような略縁起の成立の事情についての推測に基づいて、王禅寺の本尊の由来について考えてみましょう。

 略縁起は、どの寺院の縁起もがそうであるように、きわめて伝奇性に富み、それを全てそのまま信じるわけにはいきません。〇〇天

皇の勅願で寺を建てたという事についても、客観的な資料がない限り、縁起に「ハク」をつけるための創作とみなした方が良いと思い

ます。せいぜい、〇〇天皇の頃というように解釈しておきます。

 そうすると、略縁起の骨子は次のようになります。

@ 王禅寺の本尊は、金製の聖観世音菩薩であり、これは一寸八分(約

 五・四cm)の小像である。そしてこれは唐士鋳造と言われている

 が、その由来はよくわからない。

A 王禅寺が初めて寺として成立したのは、孝謙天皇の頃、つまり

 八世紀中頃であると伝えられている。しかしその時、どのような

 理由で一寸八分の観音像が本尊となったかはよくわからない。

B その後王禅寺は朝廷の勅願寺として栄えたが、兵火にあって焼

 け、この時、本尊のみが焼け残った。

C 平安時代末、崇徳上皇の頃、すなわち十二世紀の後半に、王禅寺

 は今ある地に再建され、本坊以外に六院もある大寺院となった。

 そしてこの時、一寸八分の観音像は、新たにつくられた四尺余(

 一二一cm)の観音像の胎内に納められた。しかし、王禅寺が以前

 建てられていた二本松の地(現在南百合丘小のある光ケ谷の東方

 の尾根上の地)から、現在地へと移転した理由はよくわからない。

 次に、この略縁起の骨子がどの程度事実を反映しているのか検討してみましょう。

 残念ながらこれを裏づける直接的な資料は何もありません。奈良〜平安時代の王禅寺にかかわる資料もなければ、二本松・光ケ谷の地

の遺跡も確認されていません。(ここはすでに何の調査もされずに住宅地と化してしまいました。)また、現在の王禅寺境内の考古学的調

査もなされていないので、王禅寺平安末再建を確かめるすべはありません。まして、一寸八分の観音像が、現時点において確認されてい

ないのですからなおさらです。

 現在できる事は、麻生に関する断片的な歴史的資料に基づく推定のみですので、次にその大略を記しておきます。(詳細は、も早スペ

ースが足りませんので、考古学研究部の機関誌「あしあと」第二号――三月発行予定――を参照して下さい。)

 

@ 奈良時代に光ケ谷に寺はあったのか。

 その可能性は充分あります。その根拠は次のとうりです。

 () 麻生の地は、朝廷の「牧(軍馬の飼育地)」として栄えたようです。それは麻生の南北両端、早野と町田市能ケ谷に、八世紀前半ごろ

  に作られた、馬の壁画を伴なう横穴古墳が存在し(地図の18)、さらにその北側に、馬を調教するための馬場らしき遺跡が、鶴川

  団地の中で発見されている事からいえます。

 ()麻生は、当時の武蔵国の都筑郡の中心地(現在の横浜市緑区市ケ尾から元石川にかけての丘陵地)の北西側に隣接しており、武蔵国府

   (現在の東京都調布市から府中市付近)とは、多摩川の南側の山一つ越えた所にあり、軍馬の供給地としては適地といえます。

 () この観点からみると、最近上麻生山口地区でみつかった八世紀から十世紀頃の、十七棟の掘立柱式建物注3を伴った集落遺跡(地

  図のF)は、牧を管轄する役所、そしてその南の大ケ谷戸地区の老人ホームの所でみつかった製鉄遺跡(地図のH)は、軍馬につ

  ける鉄製馬具をつくる工房と推定できないこともありません。

 () また麻生の西端、先程の能ケ谷古墳のすぐ南側には八世紀の中頃の寺院の瓦の出る遺跡(地図のG)があり、麻生の北端、光ケ谷の

  すぐ北側の丘陵からは、九世紀前半とみられる火葬墓注4が発見され(地図のB)、八〜九世紀にかけての仏教が栄えた環境がしのば

  れます。

 () さらにこの火葬墓は、朝鮮からの渡来系の豪族のものである可能性があり、もともと騎馬戦法そのものが朝鮮渡来のものである事

  を考え合わせると、麻生には、渡来人の影が色濃く残っています。(なおこの火葬墓は、横浜市緑区の丘陵部から川崎市麻生・宮

  前・高津の各区の丘陵部に分布しており、緑区・麻生区は都筑(つづき)郡の中心地、高津・宮前区は橘樹(たちばな)郡の中心地とさ

  れています。またこの火葬墓が分布する地域の中心に、朝鮮の高句麗式の横穴式石室をもった馬絹古墳が存在し、最近元石川町付近

  でも、横穴式石室をもった古墳が発見されていることは興味深い事です。)

 

 以上の諸点から、唐土(韓土)鋳造の金製の観音像を本尊とする寺が、奈良時代に麻生に存在した可能性が充分ある事がわかります。

 想像をたくましくすれば、一寸八分という小仏像は、寺の本尊というより、個人の持仏堂の仏といった方が良いので、最初の王禅寺は

豪族の持仏堂として建てられたのではないでしょうか。そして光ヶ谷の火葬墓の主は、その豪族の縁者であったのかもしれません。

 

A 平安時代末の再建は本当か

 これも可能性は充分あります。ただし、平安末の南関東は源平の争乱の渦中にあったので、大規模な寺院の建立が可能であったか多

少疑問があります。むしろ百年程後の鎌倉時代初頭の方が可能性が強いかもしれません。こう考える根拠は次のとうりです。

(A) 鎌倉時代初頭の麻生にも、仏教文化の流れと、新たに台頭した武士の勢力を示す遺跡があります。一つは麻生台団地の西、麻生川

  を見おろす亀井の台地の崖に、鎌倉時代の武士の墓があります(地図の7)。そしてこの墓の奥壁には「永仁六年(一二九八年)」という

  文字がほられていました。さらにこの亀井の台地は、平安末〜鎌倉初の武将、亀井六郎の城跡との伝承もあります。

 () 東柿生小学校の敷地をとりかこむように、四つの塚が以前は存在していました(地図の16171819)。そのうちの一つの牛塚

  は二間(三・六m)四方ぐらいのもので、他の三つも同じぐらいの大きさだったそうです。そしてその中の一つ(地図の18)は「経塚」

  とよばれてきました。この「経塚」の名称は、地図19の塚のすぐ東側から板碑が出ている事、そして東柿生小の敷地は古墳時代か

  らの神をまつる土地であった事から、この塚の性格を正しく示した物と考えます。つまり、この四つの塚は、経文を埋葬する事で、

  子孫の繁栄を願う塚=経塚であろうと推定するわけです。

 (C) さらに、麻生の西端岡上の、奈良時代の寺院瓦を出土する遺跡(図のG)のすぐ北側にある東光院には、平安時代末の仏像があり、

  また寺のすぐそばからは、十三世紀末(鎌倉時代初頭)の板碑注5が発見され、仏の力で子孫の繁栄を願った武士の存在がうかがわれ

  ます。

 以上の点から、平安末〜鎌倉時代初頭にかけてのこの地域は、前代から続く仏教文化の流れと、武士勢力の台頭とがあったことが推

定されます。このような背景のもとに王禅寺の再建はなされたのではないでしょうか。

 さらに、大きな仏像の胎内に小仏像を納める風習は平安時代以後におこなわれるようになったと言われている事も、略縁起の記述と

一致しています。

 

B 一寸八分の観音像は実在したのか。

 この点がー番大切な所ですが、各地の小仏像の例を調べてみると、十cm内外の小仏像がー番多くつくられたのは、飛烏〜奈良時代の

時期なので、今だに一寸八分の金製の仏像の実例は見つかっていないのですが、充分ありえたと思います。この点も略縁起の示す時代と

一致しています。

 

四、幻の観音像ー今どこに?

 

 では最後に、以上の推論に基づいて、略縁起がかなり事実を反映している可能性ありとした上で、肝心の観音像の行方について考え

てみましょう。

 この仏像は、今は所在不明です(またこの事が、略縁起などつくり話だとする根拠の一つにもなっているのですが)。しかし、一六五0

年に改写された略縁起でも「当寺の本尊、閻浮檀金の聖観世音菩薩は…・・・」と書かれている事が重要です。つまり略縁起が改写さ

れた時点では、一寸八分の観音像が王禅寺の本尊であったからこう書かれたままにしておいたのではないでしょうか。そして略縁起に

一六五0年の時点で、本尊がどうなっているかを書いていないのは、それが書く必要のない事明の理だからでしょう。つまり胎内仏は通

常秘仏であり、誰の目にもふれる事なく、まつられているものです。ふつうは本尊の入れ物でしかない仏像が、本尊としてまつられま

す。

 ですから一六五0年の時点では、本堂にある大きな仏像の胎内に、一寸八分の観音像は納められていたのだと思います。

 この大きな仏像とは、風土記稿が本尊として記している二尺八寸の観音像、つまり今現在の本尊なのです。

 要するに、一寸八分の観音像は現在の本尊の胎内にある、というのが、私たちの推論の結論なのです。

  補 :語句解説と注

  注@ 閻浮檀金(えんぶだこん)

    仏教用語で、人間世界に産出する金という意味

  注A 大悲閣(だいひかく)

    これも仏教用語で、観音菩薩は大きなる慈悲の心をあらわす神格であるので、大悲が観

    音菩薩の別名となった。

  注B 掘立柱式建物(ほったてばしらしきたてもの)

    奈良時代の普通の民家は下の1のような堅穴式住居で、壁というものがないが、掘立

    柱式建物は、現代の家のように壁と柱と屋根とでなっている。違いは柱を地面の柱穴に

    直接埋めて立てるところである。(2)

  注C 火葬墓(かそうぼ)

    仏教思想に基づき、死者のけがれを火で焼き、骨のみを壺に納めて埋葬した墓。奈良時

    代では進んだ習慣で、渡来系の豪族か、上級貴族の間にしか広まっていないo

  注D 板碑(いたび)

    鎌倉時代から武士の間に広かった風習で、一枚の岩の板に仏の名と願文を刻み、子孫の

    繁栄をいのるもの。寺院の周囲などに建てられる事が多い。

 

                                     柿生中学校刊「うれ柿第39号」(87.3)所収


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