「我が町長尾の歴史」講演記録10<長尾しらかし会>にて

1999年3月:


 九回目のテーマは、教育です。教育の状況を通して、江戸時代末から明治の長尾について考えてみるものです。

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(資料の説明)

 1872年(明治5年)に学制が発布され、八年間の義務教育が定められました。しかし全国的にみると、これに対して激しい反対運動がおこされ、学制反対一揆すら起きました。
 理由は1の資料の解説を読んでいただければわかりますが、学費と学校建設運営費用が高かったからです。学校建設と運営費用は全額村や町の負担であり、今と異なって授業料が徴収されていました。全国的には月50銭。現在の貨幣価値でいうと約7500円。したがって年に6円でした。ほぼ年に9万円の授業料。当時の年間平均所得が21円。ほぼ31万5000円でしたから年に9万円の授業料は高すぎました。そして働き手である子供を学校に行かせればそれだけ稼ぎが減るので、全国的には学校にこどもをやることは意味がないと考えられたのでした。
 では川崎市域はどうだったのか。
 1の資料でわかるように、市域全体に次々と小学校が作られました。そして反対一揆は起きませんでした。
 なぜ川崎市域は全国の傾向と異なったのでしょうか。ここに江戸末から明治にかけての川崎市域の特殊性がありました。
 ちなみに長尾村では、明治6年に化育小学校が土地の豪農の井田勘左衛門を中心に建てられました。
 この資料をざっと見て気がつくことは、授業料の安さでしょう。長尾村では月2銭8厘。川崎市域の一番高いのでも坂戸村の7銭6厘。一番安い上丸子村はなんと8厘です。
 この授業料の安さにヒントがあると思います。
 川崎市域では小学校はどのように建てられ運営されたのか。この資料が2です。
 明治7年の資料でわかるように、学校資金は反別拠出金という形で、村の百姓一人ひとりがその田畑の大きさに応じてお金を拠出し、それに村の有力者の寄付金という形で成り立っていました。
 長尾の化育学舎は、資本金400円(600万円ほど)。長尾村が200円。上作延村が200円出して作られました。もう一つの堰村と一緒に作った鈴木学舎は、資本金750円(1125万円ほど)。長尾村が500円、堰村が150円、それに有力者の鈴木久弥が100円。
 きっと村々が豊かなので、十分なお金が集まったのでしょう。だからこそ授業料が全国に比べて安かったのだと思います。
 そして当時の小学校の運営規則、今でいえば学校教育法と指導要領は、村々が個別に作りました。村の村長などに加えて、学務委員というのを選んで、その人たちが決めて運営していたのです。2の資料の下にあるのは、高津区の例。そして3にあるのは、神奈川県が学制に先駆けて学校を作るように出した指示の中で定めた規則の例です。
 川崎も含めて神奈川県は全体としてこうしたことを自らの手で進められる地域だったのです。
 このことはすでに江戸時代においても同じでした。
 4の資料に見られるように、たとえば川崎市域では、村村に寺小屋が作られていました。
 開業年次が分かるものでいえば、川崎駅(町)は1782年。久本村は、1823年。菅生村は1825年。溝口村は、1835年。小向村は1830〜43年のころ。井田村は1844年。古川村は1844年。長尾村は、1847年。下平間村は1851年。木月村は1857年。菅村は1859年。南加瀬村は1862年。細山村は1864年。
 江戸時代の末には続々と寺小屋ができていたのです。
 この背景は、やはり川崎市域が産業が発展し、とくに商業とのかかわりが強く、百姓たちの学習意欲が高かったからでしょう。商業にかかわるには読み書きそろばんは不可欠です。そして商いの付き合いには高い教養も必要でした。
 寺小屋や塾は、村の有力者が私財を出してつくりました。またその教師には、有力者の娘や息子で、江戸や長崎で、儒学や蘭学を学んだものがあたりました。
 こういう地域だったからこそ、明治政府に先駆けて村々に小学校をつくることができたのです。


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