「我が町長尾の歴史」講演記録11<長尾しらかし会>にて

1999年9月:


 十回目のテーマは、明治憲法の性格を問い、その背景には、江戸時代から続く民の高度な自治があったことを見ていくこととします。

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(資料の説明)

 明治時代は、鉄道を引き、世界の最先端の文物を自分のものとし、新しい日本を創りだそうとする時代でした。 
 このことは国の在り方を定めた憲法にもよく示されています。
 大日本帝国憲法はなかなか興味深い憲法です。
 この憲法では、天皇が国の在り方を決める権利である主権を持っていました。つまり君主政です。しかし天皇は政治を行うに際しては憲法の定めに従い、国会・大臣・裁判所・軍の助けを得てこれを行いました。つまり立憲君主政。この際に国民の意思は国会を通じて示されました。このような仕組みは当時の先進国の中で、フランスとアメリカを除く、イギリス・ドイツ・ロシア・オランダ・ベルギーなどの国の仕組みでした。フランスとアメリカは君主がおらず、主権は国民にある共和政でした。
 そしてこの憲法では、国民にさまざまな権利を認めました。基本的人権の尊重です。
 当時はまだドイツが先進的に認めた社会権という、人間が人間らしく暮らしていく権利はまだ入っていませんでしたが、大正時代にはこの権利も入ってきて、生活保護制度が定められます。
 こうやってみると大日本帝国憲法は、今の憲法とあまり変わりはありません。
 今の憲法は主権が国民にあるとしたことと、平和主義を唱えているところが、大日本帝国憲法とは違いますが、あとはほぼ同じです。
 ではどうして大日本帝国憲法は国民の声を取り入れたのか。
 これは憲法成立史を見ればわかります。
 明治政府は1881年に国会の開設と憲法制定を国民に天皇の名前で約束し、それが1890年に実現されたわけです。
 では明治維新から1881年までの歴史を見てみましょう。
 年表の右側のカッコのなかの出来事は、江戸時代の身分制を廃止し、新しい日本を創りだすための政策です。
 この最初にある五箇条の誓文では、「万機公論に決すべし」という注目すべきことが宣言されていました。つまりすべてのことはみんなで議論して決めようということです。最初から一部の人だけで新しい国づくりをするのではないと宣言したのです。
 これは大いなる期待を生み出しました。だから人々は明治維新に協力したのです。
 でもその期待は大事なところで裏切られました。
 それが左側のカッコ。地租改正・学制・徴兵令です。
 地租改正は税金の取り方の改正。コメではなくお金でおさめることに変えたのですが、実質的な税負担は今までどおりでした。人々の期待は税を安くしてくれること。なのに負担は変わらず、その上に学制の実施で小学校を作らねばならず、学費を払って子供を学校にだす。これじゃ収入は減って支出は増え、その上負担は増えるのです。
 そこに徴兵令。今までは戦争は武士の仕事でした。だから百姓町人は関係ない。
 なのに戦争も義務だとされました。血税。血で命で購う税金。
 御一新(明治維新をこう呼んでいました。全部新しくなる)の夢破れて、各地で反政府運動が激化したのです。
 その上、明治維新の実行部隊であった薩摩・長州・佐賀の武士たちが、自分たちが命をかけて新しい世を作ったのに特権が得られないばかりではなく、武士の特権を取られて、こちらも御一新は期待外れだと、武士たちも武器をとって蜂起しようとしました。
 政府はあわてて、武士と百姓が合流しないように百姓の要求に合わせて地租を軽減しました。
 こうした動きと武士の反乱が失敗したことを受けて、政府の約束に従って憲法を作らせて国会を作らせ、そこで政治に自分たちの意見を反映させようという動きが出てきました。
 自由民権運動です。
 民権運動の五大綱領を見てください。これが当時の国民の要求です。この運動は武士だけではなく、村々の有力者や町の有力者も加わっていました。いや国民の大部分がこれに加わりました。おかげで政府は、学生と公務員そして女子はこれに参加することはまかりならないという法律を作らざるを得ないほどに追い込まれました。
 これが明治憲法に国民の権利を定めその意見を政治に取り入れると定めた背景です。

 なぜこんなことを民ができたのか。
 実は江戸時代は民が自治をおこなっていた時代だったのです。村や町は、その有力者が自治を行い、武士はこれに干渉することはありませんでした。そして社会が豊かになるにつれてこの自治に、有力者ではない普通の人々も加わりました。村では田畑を持つ百姓は全員。町では家を所有するものは全員。こうしてある程度の財産を持つ人は、村や町の政治を自分たちで決めていたのです。
 そしてこの力を背景にして彼らは、幕府や大名に対して税の軽減や治水灌漑事業の実施や貧乏人の救済などの政治を要求して実現していました。
 五箇条の誓文での万機公論で決めるという宣言は実は江戸時代にも事実上行われていました。でも江戸時代には公式には政治は武士の仕事ですから、民の要求を受け入れるかどうかは武士次第でしたので、彼らに拒否されれば終わり。
 これを変えて、政治にはすべての国民が参加できるよう法律で定めろというのが民権運動だったのです。民の多くがこれを要求している以上政府は従わざるを得ません。
 川崎市域にもたくさんの民権運動活動家がいました。
 3の資料は溝口付近の活動家を示したものです。
 そして市域の活動家を代表した人物が二人長尾から出ました。
 それが井田文三と鈴木久弥でした。
 4に井田文三の経歴と彼の「神奈川県治論」、そして文三が亡くなったときの鈴木久弥の哀悼の辞を載せておきました。
 この人たちは地域で学習サークルを結成して、西洋の学問もしていました。
 井田文三が橘郡の書記になったとき、その担当は学務でした。つまり教育委員会の委員長。
 こうした自治の力があったからこそ、前の回でみたように小学校も自分たちの力で作れたのです。


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