「我が町長尾の歴史」講演記録12<長尾しらかし会>にて

2000年2月:


 十一回目、最終回は、資料から、明治から昭和にかけて市域がどう変化したのか。その中で長尾はどうだったのかということです。

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(資料の説明)

 1889年の町村合併で長尾は向丘村となります。1912年の資料でみるとわかるとおり、ここは農業地域。隣の高津村が大山街道の要所の溝口と二子を中心にできているため商工業者が多いのとの違いです。大師河原は門前町、川崎町は宿場町。
 川崎の中心を走る今の府中街道は、八王子街道と呼ばれた道路で、明治以後は絹の道とも呼ばれました。多摩地方の絹を横浜に運んだ街道です。絹が暴落して以後は、この地域は栗と梨の栽培地域になります。
 ただこの地域が安定した農業地域となったのは、1918年(大正7年)に久地から河口まで多摩川本堤防ができてからです。江戸幕府も明治政府も、江戸・東京を洪水から守るために多摩川左岸には本格的な堤防を築きましたが、川崎市域である右岸には認めません。洪水はみな川崎市域に行くようにしたのです。
 しかし大正の初めに大洪水が起き、怒った橘郡の民は、県議会議員を中心として500人の代表が、蓑傘をつけて神奈川県庁を包囲し、なんとかしろと押しかけました。時の県知事は内務省に逆らって県の力で堤防を築きました。
 大正時代には川崎南部に大工業地帯が発展。東北や沖縄から多くの人が働きに来ました。1923年の関東大震災は、その南部工業地帯に大被害を与えました。
 北部地域は東京に直結する鉄道が引かれて以後変わっていきました。
 今の東横線・田園都市線・小田急線はそれぞれ、東京につながる中原街道・大山街道・町田街道に沿ってひかれています。
 これで北部地域にもさらに商業が広がり、都市へのあこがれが広がりました。
 この時期に川崎市域に次々と高等教育機関ができました。
 川崎高等女学校は今の市立川崎高校、高津実科高等女学校は今の市立高津高校、中原高等女学校は今の私立大西学園です。ちなみに1922年には男子高の川崎中学(県立川崎高校)、1927年には高津中学(市立高津高校)もできています。
 交通の便もよいので、市域からは東京の中学や女学校に通う人も増えました。
 こうした商工業の発展に伴い娯楽風俗業も増えた。
 二子橋のたもとの新地に黒塀の茶屋が出現。付近の川砂採取場の作業員を当てにしたもの。
 長尾が川崎市に入ったのは、1938年。国家総動員法ができて、戦争に向けて行政費用を減らし国民を図るために町村合併を進められた中でした。


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