「我が町長尾の歴史」講演記録3<長尾しらかし会>にて
1995年9月:
二回目は、 古墳時代後半から奈良平安時代の初めまでです。
(資料の説明)
この時代の長尾を考えるには、横穴墓や横穴式石室を持った高塚古墳、そして火葬墓の存在が不可欠です。横穴墓は崖に家形をした横穴を掘り、それを墓室にしてお棺を据えたもの。横穴式石室を持った高塚古墳は、大きな石で横穴状の石室をつくり、その中にお棺を据え、その上に粘土で高い墳丘を築いたもの。
この形の墓は、人は死ぬと真っ暗やみの黄泉の国にいくという考えが広がった時代の墓(古事記のイザナギ・イザナミの話)で、この型の墓は朝鮮半島南部に起源をもっています。そして川崎の横穴墓に銅わんという副葬品が収められていて、これは資料3にあるように北九州と関東にしかない現象。そして銅わんは仏教の祭具ですので、この形の墓をもたらしたひとは、朝鮮南部からの渡来人で仏教を信仰していたことがわかります。
さらにこの形の墓に継ぐ時代の墓に火葬墓があります。資料4に図を書きましたが、土器を円形に並べて真ん中の土器に火葬骨を収め、これらの上におそらく低い盛り土を持ったもの。火葬ということは仏教の思想に基づきます。そして副葬品に刀子(とうす)という小刀があったことは、この道具が木札(木簡)に文字を墨で書いたときに間違いを削るための道具と考えられているので、朝廷の役所で記録係を務める官僚の墓だと見られています。
要するにこれらの墓が広がっていることは、長尾とその周辺の地には、朝鮮から先進文化技術を持って渡来した人が、朝廷の役人として赴任してこの地にすんだことを示しています。
多摩川の向こう側には武蔵の国国府【都】であった府中がありますので、ここに努めた官吏たちの墓ではないかと。
つまり長尾を含む川崎北部は武蔵の国の中心部であった。
資料1の地図でわかると思いますが、これらの墓は前の時代の尾根の上ではなく、平野を望む丘の上にあります。つまり人々の住む地域がその丘の上の墓を望む平野に進出したということ。ただし多摩川のような大河川ではなく、その支流の平瀬川の平野です。弥生から古墳時代初期は、東高根公園の水生植物園のような尾根に挟まれた谷戸に水田をつくっていましたが、朝鮮の進んだ土木技術がもたらされて、大きな川を制御できるようになったので、平瀬川などの中小河川の平野が水田になっていった時代です。
さらに前の弥生時代もそうですが、この時代は豊かな土地をめぐる戦争が起きた時代です。
弥生時代というのは、朝鮮から水田耕作技術をもった人々が大量に渡来し、先にすんでいた縄文人を戦争で追い出してその地に植民地を作った時代。だから縄文人と弥生人の戦争。そして縄文人は次第に追い出されて【東北と北海道】しまうか、そのちで隷属民として支配されるようになると、今度は弥生人同士の争いが。その中で異なる王朝同士の戦いも始まります。
関東には上野(こうづけ)の国中心の王朝がありましたが、九州の王朝の勢力が次第に伸びてきて、南部からその支配下に。川崎はその拠点。やがて九州王朝が8世紀初めに大和王朝に滅ぼされると、川崎も含む武蔵の国はその拠点に。
こうした時代を代表する遺跡群です。