「我が町長尾の歴史」講演記録4<長尾しらかし会>にて
1996年2月:
三回目は、 長尾の山にある妙楽寺(あじさい寺)の薬師本尊像の胎内から出てきた文書で、この寺が鎌倉時代の威光寺の後進だと分かったことにからんで、その威光寺を建てたのはだれかを考えて、平安時代後期から鎌倉時代初期の長尾の歴史を考えたものです。
(資料の説明)
通説では鎌倉幕府の正史である吾妻鏡に出てくる「長尾寺」と「威光寺」を同じ寺と考えて、長尾寺の住持に頼朝が命じたのが異父弟である全成(義経の兄)であったので、妙楽寺の前身である威光寺は将軍頼朝の弟が住持を務めた由緒ある寺だとされています。
しかし吾妻鏡の記述をよく読むと、この二つの寺は明確に区別されています。そして鎌倉の近くの大船近辺には長尾という地名があり、ここを領地とした有力土豪に長尾氏がいました。
諸般の事情から私は、吾妻鏡の長尾寺は、この長尾氏の氏寺で大船近辺にあったものと判断しました。
では妙楽寺の前身である威光寺はだれが建てたものか。
鎌倉時代初頭ですでに数代前から源氏の祈願所だったとされているのですから、この寺は平安時代後期にはすでにあったことが推察されます。
鎌倉初期にこの地を領主として治めたのは稲毛三郎重成という武士ですが、彼の年齢からして威光寺を建てたのは彼ではありえません。そこで現在の川崎市域の南部である稲毛庄を開拓したのは、川崎北部から町田近辺の小山田庄を開拓した小山田氏の一族ではないかと考えました。
それは川崎最南部の河崎庄を開拓したのが小山田氏の一族の河崎氏だったことで類推できます。
そして結論としては、重成の父の有重の二代前の基家が河崎庄を開拓し、4代前の常任が小山田庄を開拓しているので、二つの地の中間の稲毛庄を開拓したのは、この間の世代のだれかであろうと考えました。
この小山田氏というのは、桓武平氏の一族である秩父氏に属す一族です。
ですから秩父氏は、秩父からどんどん東や南に領地を広げていったことが、資料1・2でわかります。そして資料3では、川崎北部を含む地域に、新たに築かれた「新牧」(馬の放牧飼育をおこなう官営の施設・管理するのは有力武士)の地名が散見されるので(たとえば、子母口・神木)、秩父の牧の管理者であった秩父氏はその権利を使って、関東南部に新たに開かれる牧の管理者として勢力を広げたのではないかと考えられます。
その一環として長尾付近は秩父氏の一族である小山田氏によって開かれ、この一族の祈願所として建てられたのが、長尾山にあった威光寺ではなかったかと推理しました。