「我が町長尾の歴史」講演記録5<長尾しらかし会>にて
1996年9月:
四回目は、妙楽寺の薬師三尊像の胎内文書から、妙楽寺の前身の威光寺があったこの場所が、武蔵国橘郡太田郷と呼ばれていることがわかったことを手がかりに、鎌倉後期から室町時代の長尾を考えてみたものです。
(資料の説明)
太田郷という名称が出てきたことで、中世文書の中に出てきて、近江源氏の一族で鎌倉有力御家人、そして室町時代には近江の国の守護大名として栄えた佐々木氏が領有してきた「太田・渋子」郷の一部が長尾であったことがわかりました。
そして太田は、長尾の南にある土橋(宮前区)に太田という地名があり、渋子は長尾の南にあって昔は長尾本村であった神木(宮前区)ではないかと考えられ、太田渋子郷の位置がほぼ確定しました。
ではこの地を領した佐々木氏とはどんな一族であったか。
資料1の系図でわかるように、この一族は源氏将軍家とも縁戚であり、北条執権家とも縁戚である有力な鎌倉御家人でした。そして鎌倉後期には源氏棟梁である足利家とも親しくなり、室町時代には有力守護大名となった一族でした。
ではそんな有力な一族がなぜ長尾の地を領したのでしょうか。
これを考える一つの資料が、長尾も含む川崎市域に多数分布する板碑という供養塔の存在です。これは高さ4メートル前後の板状の石を加工したもので一枚作るのに今でいえば1000万円ほどかかる高価な供養塔です。
それが現在確認されているだけでも川崎市内には708枚もあり、太田渋子郷は、その中で二番目の数を誇ります(資料4)。一番目は五反田川流域の稲目郷。
なぜ五反田川流域の稲目郷と平瀬川・野川流域の太田渋子郷にたくさんの板碑があるかといえば、この二つの郷が豊かであり、高価な板碑を立てられるだけの財産をもった有力者(地侍と言います。地主百姓)が多数いたからです。
そしてなぜ豊かかといえば、この地が当時の一級国道である鎌倉街道の要地であったことと、当時の灌漑土木技術ではまだ、多摩川などの大河川の灌漑は無理なので、その支流である中小河川流域が一番の農地として開拓されていたからです。