「我が町長尾の歴史」講演記録6<長尾しらかし会>にて

1997年2月:


 五回目は、かつて長尾村の高札場に掲げられていた豊臣秀吉の禁制を手がかりに、戦国時代の長尾村の様子を考えてみたものです。

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(資料の説明)

 この禁制は、秀吉配下の兵士やその下の足軽などに対して、この村で乱暴狼藉や放火をしてはいけないこと、そしてこの村の百姓に対してさまざまな違法な要求をしてはならないことを禁じたものです。そして秀吉がこの禁制を出したのは、天正18年4月(1590年4月)、秀吉が関東の小田原北条氏を制圧しようとしている時です。
 ではこの禁制でいう乱暴狼藉放火とはどんなことなのか。
 ここを明らかにしたのが、bQと3です。
 戦に参加する兵士や足軽にとって、戦に乗じて町や村で金品や財宝を手に入れ、その住民を拉致して、奪い取った金品財宝や人間を売ってもうけることが、戦に参加する目的でした。そして戦国大名はこれを黙認したり積極的に奨励しました。
 なぜならこれによって民は豊かになり、敵方は困窮するからです。
 このため戦国時代の村や町は、大名は当てにならないので、それぞれ一揆を組み(一味同心して)自衛武装し、大名たちの争いに巻き込まれて村や町が荒廃しないよう戦っていました。 そして鎌倉時代末以後・室町戦国時代の歴史を見てみると、長尾村も何度も戦乱に巻き込まれていたことが想像できます。
 ただ1524年の小田原北条氏が江戸城を落として南関東を平定して以後はしばらくこの地域には平和が戻ってきてはいました。
 この平和を背景にして、この地は豊かになり、長尾の威光寺を百姓である井田太郎左衛門が再建したり、村々の主だった百姓は家墓をもち、石の墓石を立てるようになっていました。 そこに1590年。関東に10万を超える秀吉軍が侵入し、関東の平和は乱されようとしたのです。
 実は長尾村の禁制は、秀吉が与えたというよりは、長尾村の百姓が金を秀吉に出して禁制を買い取ったというのが実情です。つまり秀吉に軍資金を献上して敵対しないことを証明し、その代わりとして秀吉方の兵士や足軽に乱暴狼藉を働かないように命令してもらって、村を戦乱から守ったのです。
 この時代の百姓たちはしたたかで強かったのです。


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