「通史学習」は不要


注:これは「個性に配慮した教育を考える」メールマガジンの第2号に掲載された以下の意見に答えて書かれました。

以下、ナマステさんからのご投稿のうち、テーマに関する部分を基本的にそ
のまま引用しました(多少整形しましたが、本文は変えていません。)

引用、ここから-------------------------------------------------------

 個性が、個人を形成している性質そのもの全てであるとするならば、
  1.「個性に配慮した教育」=2.「個人を形成している性質そのもの全てに配慮した教育」
  2.「個人を形成している性質そのもの全てに配慮した教育」=3.「個人を尊重する教育」でしょうか。
【結論】「個性に配慮した教育」=「個人を尊重する教育」
  しかしこれではまだどのような授業になるのかよくイメージできません。そこで反対のものを考えてみる
 ことにしました。

 「個人を尊重する教育」の反対は「個人を尊重しない教育」。これなら意味が分かりそうです。ノルマをこなそうとしてクラスの進み具合に囚われてなんとか授業をまとめようとしている先生像といったところでしょうか。先生と生徒の間に今日のノルマが横たわっており、壇上までメッセージが届きにくくなっています。それとも個人ではなく成績によって人を見る先生ともとれますね。説明の労少なくして理解してくれる扱いやすい生徒を好んでしまうということでしょうか。彼らにだけわかれば授業が進んでいってしまいそうな感じがします。言動にもあらわれるかもしれないですね。なぜこの程度のものができないんだといったような感情が表情や言葉の端に出てくるような感じがします。

これらの反対であるということは、生徒からのかすかなメッセージを受け取るために、よく見たり、よく聞いたりするということでしょうか。対人関係のルール上、何らかの反応に対して先生も反応を返さないといけません。よく話しかけるということになるでしょうか。対話者が必要ないような話しぶりでは反応を返したことにならないと思います。それに、扱いやすい生徒に合わせた授業作りというものも壊さないといけないと思います。しかし、扱いにくい生徒に合わせたものであってもならないでしょう。授業の中心を誰かに露骨に合わせることなく進めて行かなくてはいけないような気がします。

 さて、ここまで書いてきたことは授業に余裕があればできることでしょう。問題なのはその余裕を作れるものかどうかということだと思います。先生、生徒両方に大量のノルマがあり授業でそれをこなすことが至上命題であるならば、個性の配慮も結局はすすけた標語か空念仏に終わることでしょう。また、個性への配慮がしっかりと為されているかどうかの判定基準が結局テストの点数へ帰されることになってしまうかもしれません。
  そこで私は次のことを問いかけたいと思います。

 「学校で行われるべき知識教育の内容量について、現行のものが必要且つ充分であると思われている のか」

 学校には次の二つの重要な側面があると思います。

   A.非営利集団と触れるところ
   B.知の技術を体系的に学ぶところ

 A.プラスによって足場を支えられた集団(富を得ることで存続するもの、企業など)ではなくマイナスに足場を支えられた集団(採算は得られないが欠かすことができないもの、地域行政など)に接する最初の機会。営利集団だろうと非営利集団だろうとどちらも集団には変わりないが、個人の権利がより際だってくるのが非営利集団です。

 B.技術立国を標榜する以上、日本国内に技術を操ることのできる人間が多いに越したことはありません。そのため歴史を通じて培われてきた知の技術を体系的に教える(以下、知識教育)必要があります。

 現在の学校教育はBに偏重してAが軽んじられ、個人の権利の本質を学ぶチャンスが逸されていると思います。地域社会が以前ほどの密接さを失ってしまった今ではそういうことを学ぶ機会はもう学校にしか残されていないのではないかと思います。感情や価値観といったものから切り離すことで築きあげられた知の体系、これを教える場を観察するだけでは個性の発現を十分見られないと思います。

 私は、授業に一つの変化がもたらされるべきで、それは知識教育の内容量を減少させることだと思っています。好きでもない知識の蓄積にかけている時間を、自分や他人のことについて思慮することにもう少しわけることができてもいいと思います。実際に教育の現場に立っていられる先生の方々の意見はいかがでしょうか。

引用、ここまで-------------------------------------------------------

 内容は多すぎます。2002年から実施される新学習指導要領でもまだ多すぎます。私は中学校の社会科の教員なので詳しい事は社会科しかわか

りませんが。

 中学の最初の2年間で人類の歴史を全部と世界・日本の地理を学習する。以前よりはずいぶんと減りましたが例えば歴史で言えば石器時代から

現代までを通史で学習しなければならない状態は変わりません。これだと授業はすごく忙しいのです。一つの事をじっくり考えている余裕はありませ

ん。

 歴史は過去の事実を知る・覚える事に意義があるのではなく、『なぜ現在私たちが知っているようなことになったのか=なぜそのときこのような選

択がなされたのか』を考えてみる事に意義があるのだと思います。なぜなら歴史の課程はそれぞれの時代の諸個人の選択の結果であるし、今を生

きるということも、現代における様々な問題に対する諸個人の選択であるからです。今起きていることに対する選択を的確になす事はそうたやすい

事ではありません。しかしこの事がどのような歴史的背景でできてきたかを知っていればこの選択はかなり容易になります。この意味で歴史を学ぶ

事は意味があるのだと思います。しかしその現在選択を迫られている問題の歴史的性格を判断し、的確な選択をなす力はただ過去の歴史を事実と

して覚えただけでは身につくものではないと思います。 私は歴史を学ぶ方法としては『過去をシュミレーションする』方法が一番だと思っています。

つまりある歴史的選択についてその時代状況を詳しく知り、その時代の人になりきれるだけの知識を得た上で、その時代の人になりきってその歴史

的選択をしてみる方法です。歴史には『もしも・・・』ということはないのですが、それを『もしもあの時違う選択が可能であったなら』と言う設定で考え、

出来れば討論してみる事で『違う選択が可能であったのか否か』『可能であったなら違う選択をしたらどのように歴史が変わったか』がかなり深いレ

ベルで理解され、「歴史的選択の重み」をつかみ、歴史過程=現代を見る目が養われると思うのです。 しかし現在の学校のカリキュラムではこのよ

うなシュミレーションを行う余裕はあまりありません。『通史をやらねばならない』枠を廃止し、『時代史』に学習の範囲を限定できればじっくりと社会・

経済・文化・思想史の面にも充分に光りをあてた、政治過程に偏しない総合的な深い学習ができると思います。またこうすることで生徒一人一人の

疑問などもじっくり深める事が出来るのではないでしょうか。

 私は中学校で学ぶ社会科の学習内容は今の半分以下で充分だと思っています。これは必修科目としてです。そしてこれ以上に学びたい人には選

択過程としてもうければ良いのではないでしょうか。(2000年1月15日)

(これに対するHamaさんのコメント:マガジン第3号所収)
※ 私は、通史を学ぶことも、必要だと思いますが、どうでしょうか。
たとえば、時代は繰り返される(どの時代においても、同じようなことが行
われている)といったことは、通史を学んではじめてわかることではないで
しょうか。
また、なぜ、このような選択がされたのか、ということについても、ある一
時代だけではなく、全体を見渡すことも必要ではないでしょうか。
さらに、教養としても、通史を学んでいなければ、本を読むときや、人と話
をするときに困るのではないかとも思います。

とはいえ、せっかくの効果的な学習法が行えないような現在のカリキュラム
には問題があるようですね。

通史もやり、シュミレーションもやるということが、ある程度の余裕を持っ
てできることが、理想だと思いますが、それを可能にするカリキュラムは無
理なのでしょうか。

選択科目を設けるというのは、そのための手段にもなると思います。
(新指導要領には、選択科目についていろいろと書かれていましたが、実際
はどのような形で実行されるのか興味があります。)

これらのことに関して、皆さんは、どのようにお考えでしょうか。
ぜひご意見をください。


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