「幻の観音像」―王禅寺伝説の解読(2)―


○これは,昨年の川崎市連合文化祭社会科生徒研究発表会で発表した時の資料です。
○柿生中の文化祭においては,この要約とビデオによる番組で発表しましたが,今回,機関誌第2号を発 行するにあたって,連合文化祭での発表用資料の方が詳しいので,これをそのまま載せました。
○なおこの一文のあとに,「王禅寺伝説」の解読(その3)として,現在王禅寺の開山とされている無空上  人についての小文を載せておきますので,あわせてご覧ください。

 はじめに(研究の概略)

 麻生区王禅寺地区にある王禅寺は,川崎市内でも由緒ある寺院です。しかし,この寺が,いつ建立されたものなのかは,はっきりしていません。

 現在,王禅寺の開闢の歴史については,次のような二つの言い伝えがあります。

@天平宝字元年(757) に孝謙天皇の夢のお告げによって1寸8分(約5.4 p)の金製の 観音像がみつかり,寺を建てた。

A延喜17年(917) 年に高野山第三世の無空上人によって建立された。

 この@の伝説は,1650年に改写された「閻浮檀金聖観音略縁起(えんぶだこんしょうかんのんりゃくえんぎ)」によって伝えられているもので,現在

では根拠のない伝説とされています。Aの伝説は,現在,王禅寺が開闢の歴史として主張しているものです。 

この研究は,@の「夢のお告げ伝説」を,麻生地区の考古学資料によって検証したものです。(Aの「無空上人伝説」については,別の機会に譲りま

す。)

1)研究の動機と経過

 私達は,最初から王禅寺の歴史を研究していたわけではありません。1984年の4月。それまで7年の歳月をかけて調査してきた横穴古墳群の調

(注1)がだいたい完了したので,新しいテーマの一つとして,「東柿生小学校周辺にある『4つの塚』が古墳であるのかどうか」ということについて

調査を開始しました。

 その結果,この塚については専門家は古墳である(注2)としている反面,土地の人々に伝わる言い伝えとしては,「昔ここに王禅寺があったが,

戦火で焼け,その時のガラクタを寺の四隅に埋めた。そのあとが4つの塚である」といわれていることがわかりました。(詳しくは,[10]平安時代末の

麻生の権力者とはの●資料1:東柿生小学校周辺の4つの経塚を参照) そこで,王禅寺の歴史を調べはじめたわけです。

●1984年度・・@「4つの塚」についての資料収集。
         A土地の人々への「聞きこみ調査」。
●1985年度・・@王禅寺に関わる諸伝説の検討作業。
         A奈良時代における「小仏像(だいたい30p以下)」の実例とその使用目的の調査。
         B小仏像にかかわる,全国の伝説の調査。
         C観音信仰と真言宗についての研究。
         D弘法大師の足跡とその一生についての研究。
         E仏教が関東地方にいつ伝わったのかについての研究。
         F古墳時代〜平安時代の麻生地区の社会状況についての,考古学資料による研究。
●1986年度・・@孝謙天皇と仏教についての研究。
         A無空上人の足跡とその一生についての研究。
         B1寸8分の観音の実例の調査。
         C王禅寺略縁起「閻浮檀金聖観音略縁起」の検討作業。

(なお,1985年4月からは,研究テーマによって班が編成された。この「王禅寺伝説」の研究は,そのうちの「王禅寺伝説班」のもの。この他には,麻生区上麻生の通称警察団地にあったとされる亀井城を研究する「亀井城班」,麻生不動の由来について研究する「不動尊班」があり,平行して研究・調査をしている。)

2)研究の方法

 研究の方法と姿勢は,次のようになっている。

@伝説については,頭から否定する態度はとらず,他の資料で裏付けられる部分とそう でない部分とを区別する。

A伝説が作られた背景を考える。

B従来の歴史書に掲載された伝説の概略を参考にするのではなく,できるだけ古い史料にあたり,言い伝えについては,なるべく土地の人に会っ

 て,聞き取るようにする。

C従来の川崎市の歴史について書かれた書物は参考資料としてあつかい,考古学資料や他の部分的なテーマについての諸研究を参照して,自分

 達で納得するまで考える。

3)王禅寺伝説

 1650年に改写された「閻浮檀金聖観音略縁起」は,王禅寺の歴史を次のように語っています。(縁起の原文と注は,末尾の資料を参照のこと)

 1.天平宝字元年(757) 孝謙天皇の夢のお告げにより,武蔵国都筑郡二本松の谷から

  1寸8分(約5.4 p)の金製の観音像が見つかり,勅命により,この地に寺が建てら

  れた。

 

 

 2.その後,戦火で寺は全て焼失したが,観音像は火の中を飛んで,現在寺のある土地

  の桧の古木に移った。

 

 

 

 毎夜光を出すので人々は恐れて山に入らなかった。ただこの地をを夜光木と呼んだ。

 

 

                        

 3.その後数百年たって,崇徳院(1123〜1141年まで天皇在位, 以後1156年まで上皇 )

  の夢のお告げにより,1寸8分の観音像が発見され,勅命によって夜光木の地に寺が

  建てられた。

 

  この時,本坊の他に6院が建てられた。そして,運慶作の4尺(約121 p)の木像の

  胎内に1寸8分の観音像を納めた。

         

 4.小田原北条氏直(1562〜1592) より,多くの寺領を寄付された。

 5.徳川氏の世になってからは,朱印地30石を賜り,寺はますます繁栄した。 

 以上の歴史の中で,4・5の部分は直接原典史料によって確かめられるので問題はないが,1・2・3の部分はこの縁起以外に史料がないので,伝

説としてあつかわれているわけです。

4)王禅寺伝説に対する学者達の考え  

 この伝説にたいする学者達の考えは,「後世の作り話」とするものが大部分です。それは,江戸時代末に作られた,「新編武蔵風土記稿」以来で

す。

 1810〜1828にかけて,江戸幕府の昌平坂学問所によって編纂された,「新編武蔵風土記稿」は,王禅寺の開闢の歴史について次のように述べて

います。

 ・・・開闢の由来はよくわからない。寺伝には,孝謙天皇の夢のお告げにより,当村の小名光ヶ

 谷の土中より,1寸8分の観音が掘り出され,伽藍を創建した。その後年月を経て破壊されてい

 たのを,崇徳院の時代に再建されたという。しかしこれは,全く後に設けた妄説にちがいない。

 孝謙帝が仏を信じられていた事により附会した説は,ここにも限らずたくさんある。また,崇徳

 院の頃は,世の中も穏やかでなく,このような東国の辺邑まで,計画が及ぶわけもない。・・・

と。 つまり,「王禅寺伝説」を否定する理由としては,

@孝謙天皇が大変仏教を信じていたので,「孝謙天皇が開いた寺」という伝説を持つ寺は全国にたくさんあること。

A崇徳院の時代は世の中が乱れていたので,このような東国の田舎の村にまで,その力が及ぶはずがないこと。

この2つをあげています。

 川崎市の歴史をあつかった最近の書物では,王禅寺についての記述すらがほとんどなく,せいぜい,江戸時代の村名として「王禅寺村」,そして,

市内で比較的広い朱印地をもらった寺として王禅寺がでてくるにすぎません。(たとえば,村上 直氏らによる「わが町の歴史−川崎−」1981年,文

一総合出版刊行)

 少し古い所では,小塚光治氏の「川崎史話」があります。

 この書では,孝謙天皇の「夢のお告げ」に始まる開闢の歴史を紹介していますが,「王禅寺伝説」については伝説として紹介するにとどめていま

す。そして「時代ははっきりしないが,当地の豪族の手によって今の地に寺がつくられた」という見解を述べています。(この書の記述の中には,川崎

そして麻生の地を「草深き田舎」とする考え方があちらこちらに見られます) 

 以上のように,「王禅寺伝説」に対する学者たちの考えは,「根拠のない伝説」として扱うのが一般的のようで,開闢の歴史としては,王禅寺が主張

している「延喜17年無空上人開闢説」が紹介されている状態です。 

5)私たちの考え

 私たちはこの伝説のうち,常識的に信じられない不思議なことを除いて,多くの部分は正しいと考えています。すなわち,

 1.奈良時代の末に,1寸8分の観音像が作られ,光ヶ谷の地に寺が建てられた。しかしその後,

  戦火で焼失した。                      

 2.平安時代の末に,現在寺のある夜光木の地に寺が再建され,この時4尺あまりの木像が作

  られて,その胎内に1寸8分の観音像は納められた。 

 このように考えています。

 つまり,孝謙天皇や崇徳院の夢のお告げだとか,観音像が空を飛んだとかは,後の世に作られた話しであり,孝謙天皇や崇徳院の命令で寺が建

てられたということも後の世の作り話しだと考えるわけです。(この理由は,新編武蔵風土記稿の著者達のあげたものと同じです。)しかし,だからと

いって,何もない所に伝説が作られるわけがありません。上の1・2にあげたような事実があって,それに後の世になって,いろいろな話しが付け加

えられたと考えるわけです。

 では次に,この伝説の大部分が正しいとする証拠をあげてみたいと思います。

6)奈良時代の小仏像について

 奈良時代に,1寸8分などという小仏像はあったのでしょうか。また,あったとすれば使い道は何だったのでしょうか。

 私たちが調べた結果,小仏像は実在し,使い道は,主に豪族などが個人の持仏として拝んでいたもののようでした。

●(資料1)奈良県の法隆寺の小仏像。                      

 法隆寺には,多くの小仏像が伝わっています。その代表的なものは,「48体仏」といって,由来がわからない10〜40pぐらいの小仏像があり,現

在東京国立博物館に保管されています。

 現在法隆寺にある小仏像の例としては,次の3例があげられます。

@釈迦三尊像(法隆寺大宝殿)・・金銅仏(注3)

 中尊・・高さ 17.5 p。右脇待・・高さ 15.3 p。左脇待・・なし。

 この釈迦三尊像の光背の裏には,628 年に蘇我の大臣のために作られたという内容の銘文が彫られています。

A薬師如来像(法隆寺西円堂)・・金銅仏

 高さ 15.5 p

  この仏像は,天平時代(奈良時代末)のもので,煤によごれ,また多くの人に触られたのか,随分磨滅していました。またこれは,同じく天平時代

 の作である西円堂の本尊・薬師如来像(高さ264.0 p)の胎内から発見されたと伝えられています。

B聖観世音菩薩像(法隆寺聖霊院  )・・金銅仏

 高さ   ?   

 この観音菩薩像は,法隆寺の聖徳太子像の胎内に納められていたもので,発見された時は,煤に汚れて真っ黒だったそうで,白鳳時代(奈良時

 代前期)の作です。また,この仏像は,口の部分がちょうど聖徳太子像の口の部分に重なるようにして納められていたので,聖徳太子は観音菩薩

 の化身であるという伝説が成立した平安時代以後に,それまで聖徳太子にゆかりのある誰かが祀ってきた観音像を,新しく作られた聖徳太子像

 の胎内にいれて,その伝説に実体をもたせようとしたのではないかと考えられています。

 また,小仏像にかかわる伝説は全国各地に見られ,1寸8分の観音についての伝説も数多く伝わっています。

●(資料2)全国各地の伝説。

@浅草寺(東京都)

 縁起によると,「推古2年(594) に1寸8分の観音像が拾いあげられ,これを祀ったのに始まる」とあります。

A連城寺(大分県)

 欽明天皇4年(543) に百済の竜伯という船乗りから伝えられた1寸8分の観音を祀ったという。

B立江寺(徳島県)

 光明皇后が安産祈願のため,閻浮檀金1寸8分の尊像を納めたという。

 そしてこの伝説の大部分は,のちに大きな仏像を作り,その胎内に小仏像を納めたというようになっています。

 さらに,まだ詳しいことは調査できていないのですが,山口県で,金製のてのひらに乗るくらい小さな観音像が,寺の裏から発掘されたという話し

が,今年の4月頃に報道されていました。

 今のところ1寸8分の金製の観音像の実例は発見できていないのですが,以上のような例によって,奈良時代(もしくはそれ以前から)には小仏像

が数多く存在し,それは身分の高い人々が持仏として祀っていたのではないかと思います。

7)奈良時代の麻生と仏教

 では,奈良時代に1寸8分のような小仏像がありえたとすれば,この時代の麻生地区には,仏像を拝むような権力者・豪族はいたのでしょうか。私

たちは,そのような豪族はいたと考えます。

●(資料1)奈良時代の寺,岡上阿部原廃寺。                   

 麻生地区のいちばん西側の岡上地区に,奈良時代の寺院跡と推定される遺跡があります。岡上東光院の南側の丘陵上にある,阿部原廃寺で

す。この地からは,8世紀中頃とみられる武蔵国分寺式の瓦が発見されており,礎石が発見されていないので,小規模な掘立柱(注4)の仏堂であ

ったと考えられています。

  地図1−岡上阿部原廃寺

 またここからは,「荏」「国」と書かれた瓦が出土していることから,隣接の荏原郡の郡家(郡を治める役所・その長である豪族の屋敷でもある)や

国衙(国府の役所)からの寄進があったと推定され,この寺は都筑郡の郡司(郡を治める豪族)の一員であった豪族が建立したものと推定されてい

ます。(川崎市史を参照。)(注5) 

図1−古瓦

 このことから8世紀中頃,ちょうど王禅寺伝説の始まる頃に,この地に仏教を信じる豪族がいたことがわかります。 

●(資料2)鶴見川流域に広がる横穴古墳群。

 鶴見川流域には崖に穴を掘って作った横穴古墳が数多くあります。(下の遺跡地図中の1〜14)

地図2「王禅寺伝説」に関係する麻生地区の遺跡地図

 このような古墳は,どのような階層の人の墓であったのかは,まだよくわかっていません。しかし,平安時代になっても庶民層の人々の死骸は,川

原に捨てられるか山の谷間に捨てられるというものでしたのでそれ以前の時代もそうだったとおもわれます。

 麻生地区の横穴古墳は,7世紀前半〜8世紀前半にかけて作られたものと考えられています。(注6)しかも,崖の岩盤に長さ約5〜8m・幅約2

〜3m・高さ2〜3mの穴をくりぬき,しかもそこに鉄の刀や金銅製の耳飾りや玉製の首飾りを副葬できる人々というのは,庶民階層以上の人々,つ

まり豪族層に属する人々であることは確実だと思います。

 また,この横穴古墳の中には有力な豪族がいたことを示すものもいくつかあります。たとえば早野横穴古墳群(上の遺跡地図の1)の2区1号古墳

や,能ヶ谷カゴ山横穴古墳群(遺跡地図の8)2区7号古墳では,奥の壁に馬や人物の顔が描かれていました。とくに早野横穴古墳の馬の絵は,裸

馬が疾走し,その上に人が乗っているようなものなので,この地に古代の牧場があり,そこで野性の馬を飼い馴らしていたことを示すのではないか

と言われています。

図2−−早野横穴古墳実測図                   図3−早野横穴古墳奥壁線刻

 そしてこの古墳の主は,「石川の牧と呼ばれた,軍団に不可欠な馬を供給する役割を持ったこの地域を管理する豪族の一人ではないかと考えら

れています。(注7)

 このことから,奈良時代の頃,この麻生の地に,かなり有力な豪族がいたのではないかと考えられます。 

●(資料3)平安時代初期の火葬墓・「骨蔵器」。

 光ヶ谷に面した山の斜面では,平安時代の初めと推定される火葬墓が発見されています。(上の遺跡地図のB)これは,火葬骨を納めた土器で,

普通はこの土器を木製の箱などに入れて土中に埋納し,その上に高さ1mほどの盛り土をして墓としたものです。

−図4−骨蔵器

 しかも,この「骨蔵器」はその形や作りから,9世紀前半頃のものと推定され,国府における官人層(豪族)の家族墓として作られたと推定されてい

ます。(注8) 

 このことは,火葬という仏教の風習をもった豪族の墳墓の地が光ヶ谷であったことを示しており,この近くに寺院が建立されたとしてもおかしくはな

いと思います。(なお,この骨蔵器が数多く分布するのは,全国の中でも,奈良県・群馬県と神奈川県の川崎市北部から横浜市北部の3地域だけで

す。) 

●(資料4)山口台上台(うえんだい)遺跡の掘立柱式建物群。

 1983〜1984年にかけて,新百合ヶ丘駅の南方にある山口台において,区画整理事業に伴う遺跡調査が行われました。そしてその一つである上台

遺跡から,注目すべきものが見つかりました。奈良〜平安時代の竪穴式住居26軒と掘立柱式建物17棟の発見がそれです。

 竪穴式住居は,9世紀前半頃を中心に,8世紀から10世紀にかけて営まれていたものです。また,同じ時期の掘立柱式建物群からは,20片ほど

の土器の細片と共に,刀子・鉄鏃・鎌などの鉄製品が,比較的豊富に出土しています。(注9)

 

−図5上台遺跡の掘立柱式建物群

 この遺跡が何であるのかについてはまだ結論が出ていません。しかし,掘立柱式の建物は,奈良時代の東国においては,国衙や郡家,そして駅

などの役所か,豪族の家,寺院であると考えられているので,調査の結論が注目されます。

 以上のことから,奈良時代の麻生地区には,仏教を信奉するかなり有力な豪族がいたのではないかと推定されます。 

 

 以上の6・7の資料でわかるように,奈良時代の麻生地区には,仏教を拝み,権力もある豪族がおり,持仏として1寸8分の観音像をもっていまし

た。それを祀ったか何かの形で寺にしたのが王禅寺の始まりではないかと思われます。(あるいは奈良時代には豪族の家の中の小さな持仏堂であ

ったものが,その持ち主の死後,寺院として拡張されたのかもしれません。)

8)胎内仏の実例

 では次に,平安時代末に王禅寺が再建され,その時に4尺あまりの木像の胎内に1寸8分の観音像を納めたということについて,検証していきた

いと思います。

 最初に,「大きな仏像の中に小さな仏像を入れる」ということが本当にあったのか,ということについてです。

 これについてはすでに,6の奈良時代の小仏像のところで2つ例をあげておきました。そして仏像の胎内に他の仏像を入れるという風習は,平安

時代から始まったと言われています。

●(資料1)法隆寺の聖徳太子像とその胎内の聖観音菩薩像。

●(資料2)法隆寺西円堂の薬師如来像

 このことから,平安時代末に4尺あまりの木像が作られ,その胎内に1寸8分の観音像を納めたという伝説が,全くの作り話ではないことがわかり

ます。

9)4尺余の木像は今どこに

 しかし,現在の王禅寺には4尺あまりの木像はありません。現在あるのは2尺8寸の大きさ(約85p) の本尊,観音菩薩座像です。

 では,昔の1寸8分の観音像を納めた4尺余りの木像はどこへ行ったのでしょうか。

 私たちは,「4尺余りの木像は観音像で,鎌倉時代末〜室町時代に焼けた」と考えてみました。この考えを裏付ける確かな証拠は現在の所では見

つかっていません。しかし,このことを想像させる資料はいくつかあります。

●(資料1)現在の本尊の作風。

 現在の王禅寺の本尊の観音像は,木製の座像で,「室町時代の作であるが,顔などに平安時代の仏像の面影をのこしている」といわています。新

編武蔵風土記稿にも,「これは後世に作ったもので,昔の本尊はいつの頃か失ってしまい,今はない。」と書かれていることからも,この2尺8寸の

観音像はもとからの本尊ではないことがわかります。

●(資料2)王禅寺の「室町時代再建」説。

 王禅寺は,はっきりした根拠がわからないのですが,1333年の鎌倉幕府滅亡の時に,北条方と新田義貞軍との戦いによって焼失したとの説があ

ります。また,「1370年に,等海上人によって再建された」との説もあります。これらの根拠となる史料を確認していないので確かなことは言えないの

ですが,上の「現在の本尊の作風」と併せて考える時,極めて信憑性があると思います。

 つまり,「4尺余りの木像は観音像であり,鎌倉時代末〜室町時代にかけて焼失した。そして新しい観音像を作る時に,昔の観音像に似せて作っ

た。」と考えられるわけです。

10)平安時代末の麻生の権力者とは

 では,4尺余りの観音像が,平安時代の末に作られたとし,その再建を支えたのはどのような人だったのでしょうか。寺を再建するにはかなりの財

力がいります。そのような人がこの地にいたのでしょうか。私たちは,この時代に勢力を強めてきた武士こそがその再建のスポンサーだったのでは

ないかと考えています。

●(資料1)東柿生小学校周辺の「4つの経塚」。

 東柿生小学校の周辺には,ちょうど小学校を囲むように,4つの塚がかって存在していました。3つの塚はそれぞれ『牛塚』『狐塚』『経塚』と名付け

られ,他の一つの塚だけは名前がありませんでした。(このことは,新編武蔵風土記稿の王禅寺村のところに書かれていました。)

地図3東柿生小学校周辺の4つの経塚 

 この塚のうち,「牛塚」と「狐塚」については専門家が古墳であるとしています。(注10)

 しかし,その後,土地の人々への聞きこみ調査によって,他にも2つの塚が第2次世界大戦中まであったこと。(注11)

 そしてその位置が,新編武蔵風土記稿の記述と一致すること。さらにそのうちの1つが『経塚』といわれていたこと。

 この4つの塚が取り囲む東柿生小学校の校庭から,古墳時代の高坏が9個まとまって出土し,この地が,祭祀関係の遺跡であったらしいこと。

 また,東柿生小学校のすぐ北側から板碑が以前発見され,現在王禅寺に保管されおり,板碑は通例,寺院など聖なる地の周囲に建てられるもの

であること。(注12)

 最後に「経塚」もまた,寺院の周囲などの聖なる地に建てられるものであること。

 これらの条件を考えあわせて,私達はこの4つの塚を「経塚」であると考えています。そしてこの「経塚」とは,子孫の繁栄を祈り,この世の終わり

に備えてお経を箱に入れて埋め,まんじゅう型に土盛りをしたものです。しかもこのような風習は平安時代末期以後にさかんになり,このようなことを

したのは仏教の信者で財力のあるひとなのです。

●(資料2)鎌倉時代の武士の墓。

 麻生台団地の南側,鶴見川を見下ろす崖に鎌倉時代の武士の墓があります。(上の遺跡地図の7)

 これは,奈良時代に作られた横穴古墳(仲村横穴古墳群2区2号古墳)を再利用したもので,奥の壁に下の図のように「永仁6年(1298)」という年

号と,「南無・・」「念仏・・・」という文字が刻まれていました。

 

図6−−仲村横穴古墳の線刻

 この文字は書体からいっても鎌倉時代のものであり,この墓のすぐ上の台地は「亀井城跡」という伝承もあることなどから,鎌倉時代の武士の墓で

あることは確実のようです。(注13)

 以上の2つの資料を考えあわせてみると,平安時代の末から鎌倉時代にかけて,この地にも仏教を信奉した武士がおり,王禅寺の平安時代末の

再建を支えた人々であったと考えられます。

11)1寸8分の観音像は今どこに!?

 以上のように,麻生地区の考古学資料をもとにして考えてみると,「王禅寺伝説」は事実無根な話しなどではなく,事実である可能性が充分あるこ

とがわかりました。

 すなわち,                                 

 1.奈良時代の末に,麻生に住む豪族が,1寸8分の観音像を作らせて自宅で祀っていた。これ

  が王禅寺の始まりであり,それは現在「光ヶ谷」と呼ばれている所にあった。

 2.しかし,その後戦火にあい,寺は焼失してしまったが,1寸8分の観音像は何かの理由で焼

  失を免れた。

 3.平安時代の末,麻生に住む武士が王禅寺を現在の地に再建した。この時,4尺余の木製の

  観音像がつくられ,その胎内に1寸8分の観音像が納められた。

 4.その後,鎌倉時代末〜室町時代に再び戦火にあって焼失し,この時4尺余の観音像は焼失

  してしまった。 

 私たちは,以上のように考えます。

 それでは,4尺余りの観音像が室町時代に焼失してしまったとしたら,1寸8分の観音像は,その時どうなってしまったのでしょう。

 この疑問を解く鍵は,「閻浮檀金聖観音略縁起」にあると思います。この略縁起は,慶安3年(1650)に,王禅寺の快尊という僧侶によって書き改め

られたものですが,これは,次のように始まっています。

       それ,当寺本尊閻浮檀金聖観世音菩薩(唐土鋳造,1寸8分)・・・・・

  私たちは,この資料を次のように解釈しました。

  もし,江戸時代の初め,この略縁起が改写された時。王禅寺の本尊が1寸8分の観音像でな

 ければ,このように書くはずがない。もし何かの原因で失われているのならば,そのことを書く

 はずだ。

 と。

 しかし,この時すでに4尺余りの木製の観音像は,焼失してないはずですので,1寸8分の観音像は,その後作られた2尺8寸の観音像,つまり,

現在の本尊の胎内にあったはずです。

 江戸時代の初めには,2尺8寸の観音像の胎内に1寸8分の観音像が納められ,それが王禅寺の本尊と考えられていたのではないでしょうか。

 それでは,いったいいつの頃から,1寸8分の観音像が王禅寺の本尊であることが忘れさられてしまったのでしょうか。

 私たちは,1650〜1810年の間に何かの理由で忘れさられたのではないかと考えます。 その理由は,新編武蔵風土記稿の王禅寺村王禅寺の記

述の中に,次のような一文があるからです。

 本堂。7間四方で南向きである。大悲閣の3字を門に掲げている。本尊は観音の座像で,長さ

 は2尺8寸ばかり。これは,後世に作ったものであるという。昔の本尊はいつの頃か失って今は

 ない。・・・・

 と。

 新編武蔵風土記稿の都筑郡の部は,文化13(1816)年に編集され,文政11(1828)年に大幅に改正されました。この改正は,最初に完成した時は,

山川・神社・寺院などの部門別に記述されていたのを村別に書き改めたものと思われ,内容的には大幅な変更はないと考えられます。そしてこの書

物は,文献や各村の名主などによる報告書をもとにして編集されたものなので,当然王禅寺の記述も王禅寺村の名主,または王禅寺による報告書

に依拠して書かれていると思われます。

 したがって,もしこの時に王禅寺の本尊が1寸8分の観音像であれば,報告書にもそのように書かれ,風土記稿もそのことを明記したはずです。

風土記編集のために王禅寺村から報告書が出された時点ですでに,王禅寺の本尊は,2尺8寸の観音像になっていたのではないでしょうか。

 風土記が編集され始めたのは,文化7(1810)年のことです。それゆえこの頃には,報告書は書かれていたと思われます。そして前に書いたよう

に,慶安3(1650)年の「閻浮檀金聖観音略縁起」では,本尊を1寸8分の観音としています。

 このような理由から,略縁起の書かれた1650年から風土記稿の編集が開始された1810年の間に,2尺8寸の木製の観音像の胎内に金製の1寸

8分の観音像が納められていることが,人々から忘れさられてしまったのではないかと考えたわけです。

 現在でも,2尺8寸の観音像の胎内に,1寸8分の観音像は,静かに眠っていると思います。

    資料         閻浮檀金聖観音略縁起

  夫,当寺(注14) 本尊閻浮檀金(注15) の聖観世音菩薩(唐土鋳造,1寸8分),人王四十六

 代 孝謙帝の御宇(天平宝字元ノ丁酉厳),天皇観世音の夢想得玉ひ,大徳の律師某に勅命

 あり, 武州都筑郡二本松といふ所谷の間に大悲(注16) の霊像在す,汝行て是お招請せよと

 有,依之,律師彼地に錫お飛して岩窟の間に禅観お凝らしければ,岩洞の透より光明お放し

 尊像飛んて律師の袖に移り玉ふ,即ち,聖観世音の銅像なり,律師是ヲ護持して帝都に帰り,

 事縁の始終お奏聞し奉る,帝聞召玉ひ叡感浅からす,勅して堂舎を造営せしむ,時に毎夜天

 より星宿下りて,光明普く近辺お輝しければ,終に俗呼んて星降山と号す,後に星宿山と改ル,

 律師王命お蒙りて禅観の地とすれば,寺お王禅と名付,各々奏して勅許お蒙り奉る,尚許多の

 寺封建お玉ふ,是より宝前に観音経(注17) お長日修し,天下安生五穀成就お祈る,是故に東

 国勅願所と成ぬ,その後乱生の兵火に罹り堂舎全く焼亡せり,此時尊像火中お飛ひ玉て,今の

 地の桧の古木にう つり,毎夜光明お放し玉ふ,土人観音の光明なる事お知らす,初めに樵夫

 も怖れて山に入らす,後には唯夜光木と号せり,本の二本松は徒に亡地と成ぬ,しかして数百

 年の星霜を経て,人王七十五代崇徳院の御宇,往古の御例の如く今帝観世音の霊像お得ら

 れ,勅して今夜光木の地に就,堂舎御営建あり,件の尊像を安置し,本坊に添て六院お造り,

 供僧六口を住せしめ,衣食の地お宛行ひ玉ふ,小田原北条氏直公より多くの寺領お御寄付有,

 其後,御当家に至り,かたじけなくも,御朱印三十石お賜り,寺境の繁栄旧時倍し,人法興隆の

 浄刹となりぬ,しかふしてより大悲の利生も広く輝きて,道俗帰依薄からす,ひとえに将軍家の

 御武威の然らしむる御事,誠に仏法王法は車の両輪と,世上のことわざも誣べからす,一山の

 人法尽期有べからすと,御代万歳の威光お感じ奉る也,今の地に堂舎安置の時,仏士法橋運

 慶をして,四尺余の木像お造らせ,閻浮檀金の小像お其胎内に納め奉る也,

      慶安三(庚寅)年十一月改写             王禅寺                                     快尊

      (川崎市多摩区王禅寺  志村 文雄氏蔵)〔神奈川県史資料編8 近世(5下)所収〕

注1  この調査結果は,川崎市文化財調査集録20(1984) 所収の「川崎市最北部谷本川流域の横穴古墳群−川崎市麻生区柿生地区−」とし

   て,東原信行氏(当時, 向丘小学校教諭)の手によってまとめられた。

注2  川崎市文化財調査集録4(1968)所収の「川崎市の古墳2)」において,伊東秀吉氏は,この塚(牛塚と狐塚)を「古墳時代後期のもの」としてい

   る。

注3  金銅仏とは,銅製の仏像に金メッキを施したもの。

注4  掘立柱とは,柱の下に礎石を置いて柱を支えるのではなく,地面に穴を掘り,じかに柱を埋めて建てたものをいう。

注5  この岡上阿部原廃寺遺跡の性格については次の3つの説がある。古江亮仁氏は「市域のおいたち」(川崎市史 1968)において,掘立柱によ

   る小規模な仏堂であるとし,坂詰秀一郎氏は「神奈川県川崎市岡上廃堂址」(日本考古学年報18 1970)において,菅の寺尾台八角堂のよう

   な円堂であるとしている。さらに赤星直忠氏は「遺跡解説・古墳時代・古代」(神奈川県史 資料篇20 考古資料 1979) において瓦窯であるとし

   ている。ここでは,古江・坂詰氏の説に従って寺院跡とした。

注6  注1の資料以外には次のような物がある。

   @「鶴川遺跡群」(町田市埋蔵文化財調査報告第3冊 1972)の「能ヶ谷町カゴ山横穴群」

   A川崎市文化財調査集録9(1974)の「川崎市多摩区早野横穴古墳発掘調査報告」

注7  早野古墳については,注6の報告書以外に考察編として,「川崎市多摩区早野横穴古墳線刻画の一考察」(三浦古文化第18号)がある。

注8  この骨蔵器は,高津区菅生長沢1822から発見された骨蔵器と,形・大きさ・材質がきわめて酷似している。そしてこの骨蔵器は9世紀中頃

   かそれより少し古い とされているので,光ヶ谷発見の骨蔵器もほぼ同じ時期のものと考えられる。

    川崎市文化財調査集録15(1979)の「南武蔵における古代火葬骨蔵器の一様相」を参照

注9  これについては,まだ正式な報告書が出されていないが,第9回神奈川県遺跡調査・研究発表会(1985)において概略が発表された。

注10 注2に同じ。

注11 麻生区王禅寺にて材木店を経営される尾作泰治氏の証言による。

注12 新編武蔵風土記稿には,「牛塚・・(村の)南の方にある。2間四方。経塚・・南にある。狐塚・・南にある。塚・・南西の方にある。いづれも由

   来はわからない。」とある。東柿生小学校の校庭から,古墳時代の高坏が出土したことについては,「川崎市社会教育要覧13」(1966)のP49

   に簡単な報告がある。また,板碑の出土については,前記の尾作泰治氏の証言による。

注13 「『永仁六年』在銘の再利用された横穴古墳−川崎市麻生区下麻生仲村横穴古墳−」(三浦古文化第31号 1982)を参照。

注14 原文では「当時」となっているがこれでは意味不明であるので,文脈上意味の通る「当寺」とした。

注15 これは仏教用語で,人間世界に産出する金という意味。

注16こ れは,観音菩薩の別名である。

注17 原文では「観音供」となっていたが,意味不明なので,文脈上意味の通る「観音経」とした。                                                                                                                                               

 ○以上が研究のまとめになります。しかし,これは,まだ極めて不充分なものです。なぜなら,確かな資料があまりにも少ないので,推測に頼る部

  分が多いからです。

 ○『閻浮檀金聖観音略縁起』の資料批判は,あまりなされていません。この点については,柿生中学校発行の『うれ柿』第 号に小文を載せておき

  ました。

 ○1寸8分の金製の観音像の実例は,発見できませんでした。山口県で見つかったという金製の小仏像について,今後調べる必要があるでしょ

  う。

 ○麻生地区の考古学的資料は,宅地開発に伴って発掘調査がなされている関係で,系統的なものではありません。その上,光ヶ谷を含む百合ヶ

  丘地区や麻生台団地は,全く考古学的な調査なしに開発が行われました。従って私たちができたことは,断片的な資料を推測でつなぎあわせる

  ことだけでした。

 ○現在の王禅寺の寺域の考古学的調査,さらに,現在の王禅寺の本尊の観音像の調査はされていません。私たちの以上の研究をより確かなも

  のにするには,このことが,今後必要だと思います。

                                          −−−−顧問より補足−−−−  


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