亀井城の謎(その2)

4.亀井住宅の謎の平地


@月読神社の碑文

 月読神社の境内に建つ碑文には、

 当社は約450年前、武蔵国都筑郡麻生郷の領主、小島佐渡守が、打ち続く応仁の戦乱の苦悩

 にあえぐ領民のため、天文3(1534)年9月29日、亀井城の卯(東)の方に社殿を建立。

  その亀井城が亀井六郎の城である。

 と記されています。

 この碑文には、『亀井城の卯の方に社殿を建立』とありました。つまり、言い換えると『月読神社の西に亀井城がある』と考えられます。

 現在、月読神社の西にあるもので最も近くにあるのは、亀井住宅です。

A昨年の研究

 昨年、考古学部は、亀井城跡と伝えられている亀井住宅を調査してみました。「柿生・岡上村郷土史」には、『城の南側に大手門に至るらしい坂道

がある』と記されてあったので、調査してみました。

 亀井住宅の南側の崖を調査してみると、亀井の岡を取り囲むような幅約10mの平地が崖の途中にあり、そこからは、横浜上麻生線(麻生通り)

の所まで続く坂道がありました。これが、「柿生・岡上村郷土史」に書いてあった「坂道」だと思います。

 しかし、この時の調査では、「戦国時代の城に似ているようだ」というだけで、これ以上詳しい調査はされませんでした。

B謎の平地の詳しい調査

 そこで、今年は、この謎の平地をもっと詳しく知るために実地調査を行い、詳しく形や大きさを測定してみました。

〔図5 亀井住宅の崖の途中にある『謎の平地』〕

 調査の結果、崖の途中にある平地は、三段になっていて、それらを結ぶ坂も、長さや幅などがまちまちだったということがわかりました。

 「平地」の中心は、中央の幅約5mで全長約122mにおよぶ、帯状の平地です。これは、亀井住宅の南側の斜面の途中で、麻生通りに面した所

をぐるっと取り囲んでいました。そしてその東側の約40mの部分が麻生通りに向かって坂道のように下っていました。ここが、「大手門に至る坂道」

と思われます。

 また、この坂道の途中から、同じ幅で約28mにおよぶ、同じく階段状の平地が西の方に伸びていました。

 さらに、中央の帯状の平地の数m上の谷状にくぼんだ所に、幅約8m、奥行き約16mの楕円状の平地があり、その上4・5mの所が亀井住宅の

平地となっています。

 しかし、このような地形はいつできたものなのでしょうか。

 そのことを知るために、地主の鴨志田さんにお話しをうかがいました。返答は、

 あそこの土地は全くいじくっていない。あのような地形の土地は使い道がないので、昔のままで今も残っているのではないか。

 とのことでした。

 この鴨志田さんのお話しを参考に考えると、謎の平地は、最近誰かがあのようにしたのではなく、昔からあのような複雑な地形だったと思われま

す。

C亀井住宅の出来る前

 では、亀井城跡と伝えられている亀井住宅は、昔はどのようになっていたのでしょうか。そこで、昔の亀井の事をよく知っている方々に聞き込みを

してみました。

 すると、みなさん同じことを語るのです。「亀井住宅の出来る前は畑で、その土地は凹凸がなく、ほぼ平だった。」と。

Dまとめ

 以上の調査でわかったことをまとめてみましょう。

 亀井城の跡と言い伝えられている亀井住宅は、東西にのびる丘の上にあるわけですが、その丘の頂上は平に削られており、その南側、道路と川

に面した部分の崖の途中には、階段状の平地が三段あり、その中の一つが丘の南側をぐるっと囲んでいました。

 これはどう考えても自然の地形ではありません。

 ではいったい何なのか。城跡なのか、そうでないのか。また、城跡ならば、いつの時代のものなのか。このことをもう少し調査してみる必要がありそ

うです。 (以上の考察は地形班の作成したものに顧問が加筆しました。)

〔図6 『亀井城』跡の遺構らしきもの 〕


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