亀井城の謎(3)

亀井六郎と柿生の鈴木一族との間には関わりがあるか?

歴史班 保科秀幸


 僕達考古学部の亀井城研究のテーマの一つに、亀井六郎重清についての研究があり、その出生について鈴木説と佐々木説という二つの説があります。詳しいことは巻頭の『はじめに』を参照して頂くとして、鈴木説の方を探っていくうちに面白い情報を手に入れました。その情報とは、「亀井六郎の兄鈴木三郎重家の直系の子孫がこの柿生にいるらしい」
 なんとまぁ凄い話ではありませんか。本当だとしたら鈴木家代々の系図など残っているかも知れません。ひょっとして謎が一気に解けてしまうかもしれない。そんな甘い期待を抱きつつ、とにかく調べてみようと思い、上麻生にお住まいの鈴木家当主忠義さんご本人に直接お話を伺いに行きました。数時間の取材の結果、今まで殆どなかった柿生近辺の鈴木氏についてたくさんの新事実を得ることができました。そこで、「柿生の鈴木氏」というテーマでひとつ研究成果をまとめてみたいと思います。

@「鈴木氏」とはどんな氏族か?

 先ほど上げた「鈴木説」というのは、“和歌山県熊野地方の出身の武将、鈴木三郎重家の弟が亀井六郎重清である”という説です。『はじめに』とやや重複しますが、鈴木三郎重家という武将の出自である鈴木氏について少しまとめてみましょう。
 「鈴木」は「佐藤」と並んで日本で最も多い名字といわれています。柿生にも確かに多く、私が小学生の頃1クラスに鈴木姓が5人いたなどということもありました。まあこれは極端な例としても、子供の頃にクラスに必ず「鈴木君」「鈴木さん」がいたという経験をお持ちの方は多いと思います。もともとこの鈴木氏は熊野神社の宮司として和歌山県で少しづつ発展してきた氏族でした。平凡社大百科事典では「鈴木氏」について次のように述べています。

 「鈴木氏(すずきうじ) …紀伊国の土豪。熊野三山との関係が深く、新宮に勤仕する三家の一つで、三方社中(宗徒・神官・社僧)として神仏に奉仕した。牟婁郡大  野荘鮒田村に古くから鈴木屋敷跡という伝承地があり、宗徒の鈴木左衛門が鈴木氏の本家という。牟婁郡のほか、藤白(名草郡藤白浦)の鈴木氏は地頭としてこの地に来たといい、そのほか雑賀(海草郡)、日高(日高郡)、名高浦(名草郡)、粉河(那珂郡)などにも存在する。熊野信仰が平安後期から鎌倉期にかけて全国に高まるにつれて全国に勧進され、それとともに鈴木氏も各地へ移り住むようになったと考えられる」

 このように熊野信仰を全国各地に広めるため、山伏となって日本中に散っていった彼らは、信仰を広める活動をしつつあるうちに、それに成功した地方に住み着いて広がってゆき(いわゆる「土着」というやつですね)、支配階級というよりは名主・庄屋といった民間の有力者として封建時代を過ごし、現代に至っています。こうしてみると、日本全国どこにでも「鈴木さん」が多いのもよくわかります。明治時代の氏姓解禁とともにわっと増えた名字ではないということは確かですね。
 それでは、総本家の直系の子孫といわれる方から伺った「柿生の鈴木氏」についてのお話の方に移りたいと思います。

A柿生の「鈴木氏」の歴史

 まず、ご当主の忠義さんのお話では、やはり柿生の鈴木氏も熊野山伏の出身ですから、熊野神社との関係は深く、代々氏子の総代表をしていたことに間違いなさそうです。柿生駅前のサープラスのビルのある場所に元々熊野神社の社殿があり、大正7(1918)年に山口台の白山社、下麻生の日枝社とともに月読神社に合祀されたとのことですが、やはり鈴木氏を頭目におくだけあって柿生の住民と熊野神社の関係の深さの顕著さをこの位置的事実は示しているといえましょう。逆に言うならば、熊野神社とその周囲を囲むように居を構えた鈴木一族の住み家を中心にその周辺から今の柿生駅前周辺は発展していったという見方もできます。正確には新百合ヶ丘駅の近くまでを鈴木家の勢力範囲と考えて良いでしょう。高層マンションのある辺り(小田急線を下り方向に進んで左側)の山が鈴木家の持ち物(持ち山?)であったらしいと忠義さんは言われました。もっとも時代ははっきりしないそうです。
 次に、直系の当主であるということについての事実関係を伺ってみました。
 忠義さんによると、「総本家から幾つかの分家ができたのは寛永年間、たぶん1633年頃であろう。それからずっとこの柿生に直系の子孫が住み続けている」ということです(このことの資料については後述します)。
 ところが、ここで大変ショッキングな事実を教わりました。「19世紀中頃、菩提寺の火事により、鈴木家の直系の記録が焼失してしまった」ということです。したがって、その時より前の系図と過去帳は現存しないということになってしまう訳で、これでは歴史を遡るとしても 100年がせいぜいではありませんか。
 が、しかし「捨てる神あれば拾う神あり」という通り、まだ終わってしまった訳ではありません。忠義さんは過去帳なら完全とはいかないまでも作り直すことは可能なのだと言われました。そう、亡くなった人の名と年月日が記してあり、なおかつ焼失してしまわないもの、それは「墓石」です。前述の総本家から分家ができた年が「寛永年間、たぶん1633年頃だろう」とした根拠は、当主の鈴木妙泉さんという方が寛永10(1633)年に亡くなったことが墓石から明らかになっており、この時に分家ができた                 −74−
ものと考えられる、ということだったのです。また、「棟札」と呼ばれる木片の記録、さらに月読神社の記録をつきあわせることによって、分家ができた年、1633年までは確実に遡ることができたということです。完全に復元された系図を再び見ることができればよいのですが…。
 忠義さんは快く 350年前までの記録(復刻版ともいうべきものですが)を見せて下さったのですが、それによると四代前の藤右衛門氏は片平分校のあった場所に住んでいたそうです。明治12,3年といいますから、1880年頃のことになります。その時からの記録は完全に残っていますので、ここから先は証拠物件による推測ということになる訳ですが、信頼度はかなり高いとみて良いでしょう。

B結論として

 1989年度文化祭前のたった一回の取材だったために、聞けたことは多かったのですが確実な情報となると非常に浅い範囲のものに限られてしまいました。忠義さんのお話によると、柿生村の前の村長さんが書かれたという本には、鈴木氏と何らかのつながりがあったと思われる戦国時代の地頭三井弥市郎吉正(武田氏の家臣という資料があります)という人物が登場し、「亀井六郎に縁あり」などと書かれていたらしいとか、また室町時代から江戸時代にかけての柿生周辺の民家の拡がりを示す資料があるなどの話を聞くことができましたが、原本の存在を確認できず、完全な確証に欠けていると云わざるを得ません。
 したがって現時点では、柿生の鈴木氏と亀井六郎重清を明確に結び付ける資料や証拠が存在しません。もちろんはっきり否定はできないものの、あえて言うならば、「亀井六郎重清はこの柿生の地にゆかりのある武将である…かもしれない」という範囲で論述をとどめておいた方が良いように思われます。

Cあとがき

 本来、亀井六郎重清か鈴木三郎重家とのつながりを柿生の鈴木氏に求めて忠義さんを訪ねていったはずなのに、いつの間にか別個の研究テーマができあがっていました。掘り下げる余裕がなかったために、中途半端の印象が拭えないのは残念です。
 しかし、まだまだ魅力ある資料は残っていますので、また機会があればリトライしてみたいと思います。亀井城研究からは大幅に外れますが、このテーマも研究するに値する、それだけの価値を持っていると言って良いと思います。
 いつの日か、先人たちの足跡を日の下に明らかにする日が来ることを切に願うものであります。また最後になりましたが、この場を借りて、快く取材に応じて下さった鈴木忠義さんに厚く御礼申し上げます。                                                         


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