亀井城の謎(3)

亀井六郎は本当に鈴木一族の出自か?

歴史班 佐藤康人


@鈴木氏説と佐々木氏説、どちらが有力?

 亀井六郎の出自については、既に巻頭の『はじめに(今までの研究の流れと今号の概要)』などにふれられているように、紀伊国の豪族,鈴木氏とする説と、近江国の宇多源氏,佐々木氏という二説があります。多くの歴史人名辞典では、亀井六郎の出自は鈴木氏であると記してありますが、考古学研究部の研究では、どうやら亀井六郎は佐々木秀義の六男・佐々木厳秀らしい、という見解に達しました。そこで、亀井六郎と佐々木厳秀は同一人物であるかどうかを綿密な裏付けにより推論したのが、顧問の川瀬先生による今号所収の『亀井六郎重清と佐々木六郎厳秀は同一人物?』です。この論文により、考古学研究部における亀井六郎の出自の「鈴木氏VS佐々木氏論争」は、「亀井六郎=佐々木厳秀」とする説が有力視されるに至ったのです。また、歴史班の保科君による『亀井六郎と柿生の鈴木一族との間には関わりがあるか?』でも、亀井六郎が鈴木一族の出であるとする根拠の一つであった、柿生の旧家で地主の鈴木一族の存在も、その祖先が江戸時代初頭までしか遡れず、亀井六郎との関係を全く立証できませんでした。
 それでは、亀井六郎が紀伊の鈴木氏の出自である可能性は否定されたのでしょうか。本稿では、鈴木氏説に関する史料を整理し、鈴木氏説を再検証してみました。

A鈴木氏の家系図の諸説の整理

 亀井六郎の出自を鈴木氏だとする説の最大の根拠は、前述したように、多くの歴史人名辞典の記述が鈴木氏の出自としている点にあります。これらの辞典が亀井六郎の出自を鈴木氏とする史料には、紀伊鈴木氏の家系図があげられます。しかし、この鈴木氏の家系図には、一方の系図に記載された人物名がもう一方の系図には無かったりと、諸説相乱れています。そこで、亀井六郎と鈴木氏の関係を明確にすべく、これらの系図を整理してみました。なお、亀井六郎より前の系図は史料による差異が殆ど無いので省略して、それより以前の系図は51頁に掲載した鈴木氏の系図を参照していただきたいと思います。

1)寛政重修諸家譜巻第千百五十四による鈴木氏の系図

 寛政重修諸家譜では、鈴木氏の家伝として下記の系図が寛永系図に記しているとしています。この系譜では、重倫が平治の乱で戦死後、家督は弟の刑部左衛門重善が継ぎ、重倫の子鈴木三郎重家・亀井六郎重清兄弟は伯父の重善に養われ、のち伊豫守義経に仕え、高舘において戦死したと述べています。さらに、重善は重家の奥州下向後、その後を追い高舘へ下りましたが、その途中三河国矢矯で脚疾を患い、その地に逗留する間に高舘陥落の知らせを聞き、そのまま三河に土着した、としています。

(前略)−左近将監重邦(1123年没。30歳。法名道哲。源為義に属し戦功あり)
          |
          |――庄司重倫(平治の乱-1159-で戦死)――三郎重家
          |                         |
          |                         |―六郎重清
          |――刑部左衛門重善(善阿彌)

2)続風土記、藤白浦旧家、地士鈴木三郎条による鈴木氏の系図

 この続風土記の記述は、既に『はじめに』や『亀井六郎重清と佐々木六郎厳秀は同一人物?』でふれられていますが、文の構成上、再度ここに収録します。その内容とは、

 紀伊国藤白の豪族鈴木三郎重國は縁あって源義朝に近仕していた。義経がまだ舎那王といっていた頃、熊野詣でをして鈴木館に逗留した。その時、義経に仕えていた武士で、佐々木秀義の六男・亀井六郎重清を、鈴木重國の一子・鈴木三郎重家と義兄弟の契りを結ばせた。重家は家に留まり父を養い、重清は義経の軍中に従わせた。義経が奥州に落ちた時、高舘に安住の地を得たとの報せを受け、重家とその伯父重次は山伏の姿をして奥州へ下った。重次は病を得て、三河国刈屋に留まった。重家は奥州に着き、衣川にて兄弟討死にした

 というものです。また、この続風土記では、鎌倉實記の記述として、以下の内容を記載しています。

 義経は去年より紀州藤代に籠っておられ、奥州に行く準備をした後に文治3(1187)年2月18日に出立された。また、熊野に鈴木三郎重行という者がいた。重行は義経が鞍馬に居た時に対面し、主従の約束をした。木曾義仲追討の際、義経が大将として都に入った時、重行は持病が悪化して参戦できず、代わりに甥の鈴木三郎重家・亀井六郎重清を遣わせた。その後、重行は義経が高舘で戦死した後に、 矢作宿において法師となり、その地に住んだ。この重行とは家伝の重次と考えられる

 とあります。この二つの史料の記述を整理すると、次頁のような系図になります。

      |――鈴木治郎重治(或いは重國の三男)…鈴木の嫡流を継ぐ
      |
・・・・・・・・|――鈴木重次(=重行?)
      |
      |―― 鈴木三郎重國(義朝に近仕)―――鈴木三郎重家
                              |
                              |
           佐々木秀義────────=亀井六郎重清

3)寛政重修諸家譜の家系図と続風土記の家系図における共通性のある点

 さて、上記の二つの鈴木氏の系図には幾つかの共通性のある点が認められます。そこで、現段階で推測が許される範囲での共通点を整理してみました。

1.1)の刑部左衛門重善と2)の重次(=重行)は、共に重家・重清兄弟の伯父であり、病のため奥州に下れずに三河国に土着していることから、同一人物と考えられる。

2.重家・重清兄弟の父とされる1)の庄司重倫は平治の乱で戦死、2)の三郎重國は義朝に近仕、という点で共通性があり、同一人物だとすると、義朝に近仕し平治の乱に従軍し戦死した、と推定できる。また、2)の家伝で重家が重清と義兄弟の契りを結んだ後、義経に従軍せず父を養ったというのは、1)で重家の養父となった重善(=重次=重行)のことではないか?。これは、重善(=重次=重行)が病気持ちだったという双方の記録から推測できる。

4)まとめ

 亀井六郎の実父が1)の鈴木重倫(=重國?)であるか、それとも2)の佐々木秀義であるかは、まだはっきりと断言できません。ただ、前出の『亀井六郎重清と佐々木六郎厳秀は同一人物?』により、亀井六郎が佐々木秀義の六男で、鈴木三郎重家と義兄弟の契りを結んだという2)の記述は、かなりの裏付けがされたと思います。亀井六郎が生粋の鈴木一族の出だとする通説では、亀井六郎が鈴木三郎の弟で源義経に仕えたということのほか、その人物像が一向に浮き彫りにされてきません。その点で、前出の亀井六郎=佐々木厳秀説は、亀井六郎の人物像を2)の記述に基づいて綿密に裏付けした上で推論されており、現段階では後者の「亀井六郎は佐々木秀義の子」とする説の方が、有力であるといえます。
 以上の点を留意して、1)寛政重修諸家譜巻第千百五十四の家譜と2)続風土記、藤白浦旧家、地士鈴木三郎条の家譜との共通性のある点から、亀井六郎の鈴木氏との関係を以下にに図示してみました。

(前略)−左近将監重邦(1123年没。30歳。法名道哲。源為義に属し戦功あり)
         |
         |―――治郎重治……(鈴木嫡流)
         |―――刑部左衛門重善(=重次=重行?。三河に土着。重家の養父)
         |―――庄司重倫(=重國?。義朝に近仕し平治の乱-1159-で戦死?)
                   |
                   |――鈴木三郎重家
                   |
  佐々木秀義────────=亀井六郎重清

B稲毛郷土史の記述の再検証

 前章では、系図による亀井六郎の鈴木氏出自の可能性をまとめてみました。次に本章では、亀井六郎の出自を鈴木氏説に依拠して書かれた『稲毛郷土史』(伊藤葦天著・稲毛郷土史刊行会)の記述について検証してみましょう。

 この『稲毛郷土史』とは、多摩区登戸に住んでいらっしゃった伊藤葦天さんという方が、旧多摩区(現多摩区と麻生区)一帯にある伝承や風俗などについて書かれた本です。この伊藤葦天さんという方がどんな方であったかは、『神奈川県姓氏家系大辞典』(角川書店刊)によりますと、

伊藤六郎兵衛…第三代六郎兵衛(1883〜1974)も橘樹郡登戸村に生まれる。明治
        37年日本大学に学ぶ。同41年丸山教第三代教主となる。登戸稲荷
        神社など数社の社掌を兼ねた。関東大震災で倒壊した大教殿を復
        興し、教線を広げた。昭和20年神奈川県神社庁参与。俳号葦天。
        著書に『五月の旅』『穂』『川崎風土記』などがある。同47年第
        一回川崎市文化賞受賞。墓所は登戸の丸山教本庁内墓地」

 とあります。また、伊藤葦天さんは詩人のサトウハチローさんとも親交があり、かなりの文人であったそうです。

 さて、実は私は今号所収の拙論『亀井城はなぜ築かれた』の「A亀井六郎が麻生に居住した理由」の中で、今まで謎であった亀井六郎の麻生来住の理由をこの『稲毛郷土史』の記述を基に推論し、また『稲毛郷土史』の記述についても既に検証しました。しかし、改めて『稲毛郷土史』を読み直し、その基となる史料について整理してみましたら、疑問となる箇所がいくつか出てきたのです。そこで本章での『稲毛郷土史』の内容の検証は“再”検証となります。
 というわけで、『稲毛郷土史』に記載された内容については前掲『亀井城はなぜ築かれた』の第二章を参照して頂き、『稲毛郷土史』の再検証に入りたいと思います。

〔稲毛郷土史の再検証〕

 『稲毛郷土史』にある重要な記述、つまり亀井六郎の出自や麻生に来住した理由などを、項目別に整理して再検証してみました。

事項 稲毛郷土史の内容 資料・疑問点
前 九年・後三年の役に参戦 し た ・前九年の役(1051〜62) に鈴木重宗が従軍し、 →鈴木重宗の名は系図等に記載なし。また、前九年の役に鈴木一族が従軍した記録もなし。
・その拠点を比企郡岩殿山に置いた。 →新編武蔵風土記稿では、岩殿山一帯が「亀井庄」との記述あり。ただし「古き領主の名のみえた古文書はない」としている。
・更に、後三年の役に(1083〜87)その子重倫も従軍した。 →鈴木一族が後三年の役にも従軍した記録なし。また、鈴木家の家譜では重倫の父は保安4(1123)年に30歳で死んだ左近将監重邦としており、更に重倫の死は平治の乱(1159)で戦死となっている。つまり、もし重倫が後三年の役に参戦していたら、その時の年齢を15歳前後としても、平治の乱で戦死した時には年齢が90歳前後になってしまうので、かなり考え難い。
麻生を軍功として領した ・前九年・後三年の役での軍功として麻生が与えられた。 →根拠となる史料なし。また、前掲『亀井城はなぜ築かれた』では、鈴木一族が麻生を領有した物的根拠として麻生一帯に散在する熊野神社を挙げたが、柿生の鈴木氏のルーツは江戸幕初までしか遡れず(前掲『亀井六郎と柿生の鈴木一族…』参照)、この前九年・後三年の役の時代から鈴木一族が麻生に居住し、熊野神社を祀ったとは考え難い。更に、紀伊の鈴木一族が本国を離れ武蔵まで移住してきたのは室町期以降であり(姓氏家系大辞典では「武蔵橘樹の鈴木氏」他、武蔵国の鈴木姓を名乗る氏族全部が室町期以降の移住)、柿生の鈴木氏も他の鈴木氏同様室町期以降に来住したと考えられる。つまり、稲毛郷土史の記述の裏付けとした麻生一帯の熊野神社は、柿生の鈴木氏の来住時期=室町期以降に造られ、この時代=1100年前後には存在していなかったと考えるのが妥当だろう。したがって、麻生を鈴木一族が前九年・後三年の役の軍功として領有した可能性はきわめて薄いといえる。
大国魂神社の猿渡神主 ・麻生に居住した鈴木一族は大国魂神社の猿渡神主と懇意だった。 →鈴木一族がこの時代に麻生に居住したかも定かでないので、疑わしい。ただ、黒川の汁盛神社が大国魂神社の末社だったこと、麻生から大国魂神社へ麻が献上されていること(937年)から、古くから麻生と府中は密接な関係であったことがわかる。
保元・平治の乱に参戦 ・鈴木一族は都に上り源義朝に従軍し保元・平治の乱に参戦した。 →重倫の父重邦が源為義の家臣だったことから、既に源氏と鈴木一族は関わりがあった。また、重倫が平治の乱で戦死していること、さらに家譜でその子としている鈴木三郎・亀井六郎が義経の家臣になっていることから事実であろう。
牛若と重倫が主従の誓いをした ・平治の乱に敗れ熊野に潜伏していた鈴木重倫は、鞍馬にいる牛若丸を密かに訪ね、主従の誓いをした。 →重倫は家譜より平治の乱で戦死しているので、ありえない。ただ、鎌倉實記に『熊野に鈴木三郎重行という者がいた。重行は義経が鞍馬に居た時に対面し、主従の約束をした。木曾義仲追討の際、義経が大将として都に入った時、重行は持病が悪化して参戦できず、代わりに甥の鈴木三郎重家・亀井六郎重清を遣わせた。その後、重行は義経が高舘で戦死した後に、矢作宿において法師となり、その地に住んだ』とあり、著者はこの重行(=重次=重善?)を重倫に結びつけたのではないか。
・そして、義経挙兵の際に自身は老齢のため、甥の三郎重家と六郎重清を義経に従えさせた。 →重倫は死んでいるので、これは重倫ではなく、上記の重行か?。

 以上のように、『稲毛郷土史』の記述には創作によるところが多いといえます。しかし伊藤葦天さんは、大体の点においてしかるべく史料を基に論述されており、全くの創作とはいえませんが、『稲毛郷土史』を史学的資料とするには創作性が強すぎるといえるでしょう。したがって、『稲毛郷土史』の記述を基に亀井六郎の出自や、麻生を領した理由を述べた私自身の論文『亀井城はなぜ築かれた』の第二章の部分は、この再検証によって否定されたといえます。つまり、私が『稲毛郷土史』の記述を基に展開した内容、つまり、亀井六郎が麻生に来住したのは鈴木氏が前九年・後三年の役の軍功として麻生を与えられていたからであり、だから亀井六郎の出自は鈴木氏である、という三段論法は成り立たなくなったのです。

 結局のところ、『稲毛郷土史』の記述は亀井六郎の出自を鈴木氏とする明確な資料には成りえませんでした。

Cまとめ

 第二章・第三章で述べたように、現段階での研究状況から結論を述べるのでしたら、亀井六郎の出自は佐々木秀義の六男で、鈴木三郎重家と義兄弟の契りを結んだとする『続風土記、藤白浦旧家、地士鈴木三郎条』の記述が、亀井六郎の人物像を明らかにしている点でも、信憑性のあるものといえます。
 では、亀井六郎がなぜ麻生を領有したかという点においてはどうでしょうか?。
 鈴木氏説においては、第三章で述べたように、その根拠としていた『稲毛郷土史』の記述が資料とならなくなってしまいました。また、『稲毛郷土史』の記述を除外しても、鈴木一族自体が本国紀州を離れ武蔵に移住してきたのは室町時代以降であるという『姓氏家系大辞典』の内容からいっても、麻生を領有したという史料がない限り、柿生の鈴木氏だけが、突出して平安時代末頃に麻生に移住していたというのは、可能性の問題からいっても難しいといえるでしょう。
 一方の佐々木氏説ですが、川瀬先生の前掲の論文の巻末の但書にありますように、佐々木秀義の母が安倍宗任の娘という所伝を信じれば、彼の父は前九年の役か後三年の役に参加していることになり、史料がないにしても、その恩賞として麻生を領有した可能性はあります。また、亀井六郎(=佐々木六郎)の母の父渋谷重国の祖父、渋谷基家は橘樹郡河崎荘を領して「河崎冠者」とよばれ、父の重家は「河崎平三大夫」とよばれていて、後にこの河崎荘は佐々木氏のものになっています。さらに麻生の隣、現在の川崎市菅生・土橋・長尾一帯は佐々木氏に相伝された太田・渋子郷です。この他にも、鎌倉幕府創設の軍功により、佐々木氏が鎌倉の防御のための交通の要衝の地を各地に領している点から、同じく交通の要衝の麻生を領した可能性はあります。いずれも、佐々木氏が麻生を領したという記録がないにしても、既に当時から佐々木氏は現在の川崎付近に勢力基盤を持っていたことは明らかであり、可能性の問題でも鈴木氏説を大きくリードしていることは間違いありません。
 これらの結果より、考古学研究部の亀井城研究の研究成果からいっても、亀井六郎の出自は佐々木氏説であると結論づけられる状況になりました。ただ、今後の課題としては、亀井六郎(=佐々木六郎)が如何にして麻生を領有したかを、以上の可能性の問題を踏まえて、明らかにしていく必要があるでしょう。


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