「我が町長尾の歴史」講演記録9<長尾しらかし会>にて

1998年9月:


 八回目は、江戸時代の長尾の様子を当時の資料で見てみるという趣旨の二回目。長尾村の山根家に伝わる年中行事書付と、長尾の東隣の宿河原村下綱の綱下げの松伝説と信仰の事件とを題材にしています。

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(資料の説明)

 山根家の書付は天保年間ですから、1820年代から40年代のお話。
 じっくり読んでみると、当時の習慣と信仰がよくわかります。二枚目の上段の真ん中あたりに、正月5日権現社での弓を用いた祭礼。いまでも長尾神社で行われている的弓祭のこと。また正月7日の赤城神社でも同様の行事があったような。
 今では権現社の後身である長尾神社の祭礼も正月7日になっています。
 この山根家文書では百姓の家の祭礼にかかわる休日があまり定かではありませんが、その少し前の梶ヶ谷村での記録では、一年間に44日の休日がありました。江戸時代の初めの秀吉の時代には、農業先進地帯である畿内でも、休みは20日ほどでした。
 この記録のことは2000年度の授業記録、「年貢さえすませば百姓ほど楽なものはない」の8回目「憂世から浮世へ」に使用しています。
 この休みはほとんど何らかの祭礼でしたので、神を祭る祭礼といって農作業を休みにしていたのでしょう。
 江戸時代はそれ以前の時代より豊かになり、百姓にもゆとりが出ていたのです。
3・4枚目が綱下げの松の話。
 江戸時代の資料をもとにして、市の文化財委員の三輪修三氏が本に書いたものです。
 天保年間に突然、すでに枯れてしまったこの松に霊験があるとのうわさが広がり、遠く江戸市中からも多くの参詣客が繰り出し、おかげで沿線や綱下げの松の下にも、たくさんの茶屋や芝居小屋まで出てきました。これらの茶屋や芝居小屋は参詣人が落とす金銭を目当てに、長尾や宿河原など近隣の村の百姓たちが出したものでした。
 幕府がただちに禁令を発して松も伐採してしまったのですが、当時の人々には、こうした霊験に飛びつくほどの不安が蔓延していたとともに、それをネタにして物見遊山にしてしまうバイタリティもあったことを示しています。
 最後の五枚目の資料は、その綱下げの松の由来記です。


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